2016年12月31日土曜日

2016.12.31 ベートーヴェンは凄い! 全交響曲連続演奏会2016

東京文化会館 大ホール

● ベートーヴェンの9つの交響曲をまとめて全部演奏して聴かせましょうという,おそらく世界に類例のない企画。
 今回で6年連続6回目の拝聴となる。

● 開演は午後1時。終演して会場を出たときは,2017年になっていた。
 11時間に及ぶ長丁場の演奏会だけれど,実際には長めの休憩を多めに入れていくので,(観客は)さほどに疲れることもじつはないんだけどね。

● チケットはヤフオクで落とすことが多かったんだけど,今回はA席を正規に購入。15,000円。3階席の3列目。ところが,ステージは正面に見えるものの,だいぶ遠い。
 去年はC席で4階右翼席の1列目だった。その4階右翼席がすぐ近くにある。C席は5,000円なんだけど,これで1万円の差があるとはねぇと,セコいことを考えてしまった。
 今回のA席は限りなくB席に近いA席だったのかもしれない。ただ,ヤフオクだとC席でも倍の値段じゃないと落札できないのでね,仕方がないでしょうね。

● セコい話をさらに続けると,何年か前に東京文化会館のカウンターでC席を買ったことがあったんですよ。そのときは4階左翼席だった。ただし2列目。1列目でも2列目でも同じCなんだけど,1列目か2列目かで天地の差が生じる。
 けっこう早い時期に買ったんだけどね。それでも2列目しか買えない。安い席は早々に売れていくんでしょうね。
 正規料金で2列目になるよりは,倍出しても1列目がいいと思いましたね。つまり,ヤフオクで1列目のC席を狙おう,と。ところが,今年は倍額でもC席チケットを落とせなかったんでした。

● ま,ともあれ。とにかく,今年もこの演奏会を聴くことができる。自分にこの演奏会を聴く資格があるのかと思わせられる出来事が今年はあった。けれども,とにかく。この演奏会を聴くところまで漕ぎつけた。
 場内ロビーは例年と同じ華やいだ雰囲気だ。これほどの華やぎのあるコンサートというのは,オペラなんかではあるのかもしれないけれども,管弦楽では他にあるのかどうか。
 ちなみに,毎年,チケットは完売する。

● 指揮は今年も小林研一郎さん。管弦楽は「岩城宏之メモリアル・オーケストラ」。今日だけのオーケストラだ。主催者によると,「日本を代表するオーケストラで活躍するコンサートマスターや首席奏者クラスによる特別編成です」とのこと。
 コンサートマスターは篠崎史紀(NHK交響楽団第1コンサートマスター)さん。これも例年と同じ。

● 奏者は大半が男性で女性は6人。ヴァイオリンとヴィオラが2人ずつ。あと,オーボエとフルート。
 何せ長丁場になるから,女性はちょっと参加しずらいのかもしれない。

● 1番が始まってすぐに,この演奏のすごさというか,水準の高さというか,圧倒される思いがした。この演奏に対してああだこうだと言うのは,ぼくには百年早いだろう。
 もしこの演奏でもダメだと言うなら,ベルリンかウィーンにでも行くしかない。といっても,ベルリンでもウィーンでも,“全交響曲連続演奏会”はやってないだろうけどね。

● 開演は終演の始まりでもある。1番が終わり,2番も終わってしまうと,あぁこれで9分の2が終わってしまったという,淋しさのようなものを感じる。
 夏休みが始まったばかりなのに,あと何日とカウントダウンを始めてしまうのは愚の骨頂だ,と小学生のときに思ったけれど,同じことを大人になってからもやってきた。
 老境にさしかかった今も,また同じことを。

● 4番が終わったあと,三枝茂彰さんの「お話」があった。おおよそ次のようなものだった。
1 ヨーロッパの音楽には,ソナーレ(器楽)とカンターレ(声楽)という互いに相容れない2つの流れがある。ソナーレは厳密な形式によって成立するのに対して,カンターレは言葉によって自由に感情を表現する。その両方で成功した作曲家は,モーツァルトを唯一の例外として,存在しない。

2 ベートーヴェンは交響曲を完成させた作曲家であると同時に,交響曲を終焉させた作曲家でもある。9番において合唱を持ちこんだ。これは交響曲の形式を破壊するものであり,現代音楽につながる礎石となるものだ。

3 演奏のスピードが年々速まっている。この演奏会でも昨年より数パーセント,演奏時間が短くなっている。カラヤンの頃は,第九は1時間10分程度をかけて演奏していた。ところが,最近では1時間を切る演奏のCDも出ている。

● ぼくには「3」が興味深かった。人って,あらゆるところでスピードを好む生き物なんだろうか。速いということに惹かれる。
 それはなぜかというと,究極の理由は二足歩行の遅さにあるのかも。自力では速くは移動できないというところ。ライオンや虎に狙われたら,丸腰では絶対に助からない。
 新幹線に慣れたら在来線には戻れない,というのとはまた別の話になるんだろうけど,いろんな局面で速さを追求することがブレイクスルーにつながる?

● 3番が最初の山であることは間違いない。次に5番,7番とあって,最後に9番という史上最高峰がやってくる。
 この演奏会を聴いた方々のブログは自分も読むことにしている。たいてい,5番と7番が絶賛される。過去には神降臨と書いている人もいた。
 ただ,それらは演奏というよりは曲に内在しているエネルギーが解放されたことによるものだろう。曲自体が持っている力が奏者を動かして客席を支配するのだと解しておく。

● それで行くと,今年は7番ということになるだろう。が,ここであえて8番だったと言ってみたい。8番を,7番と9番に挟まれた貴婦人と評したのは誰だったか。
 が,ここで聴く8番は決して貴婦人という言葉から連想される楚々としたものではなく,うねって押し寄せては退いていく,躍動する8番だった。

● が,それも9番を除けばという話になる。合唱は例年どおり武蔵野合唱団の皆さん。9番が始まるのは23時に近い時刻だ。この時間帯に声が出るのかと心配になるんだけど,その心配は杞憂なんでした。
 ソプラノは今年は市原愛さん,アルトは山下牧子さん,テノールは笛田博昭さん,バリトンは青戸知さん。バリトンを除くと,ソリストは一新された。

● 19世紀後半から20世紀前半に生きた指揮者のフェリックス・ワインガルトナーが,「第九交響曲を毎年何度もよくない演奏で聴くよりは,十年に一度よい演奏を聴いたほうが,はるかに有意義である」と言ったらしい。
 ぼく一個はこの言い方には疑問を持つけれど,たとえそうだとしても,10年に一度どころか,1年に1回は「よい演奏」を聴いてきたのだな,この6年間は。

● というわけで,今回も素晴らしかった。C席なら5,000円ですむ。それでこうやって大晦日を過ごせるなら,めっぽうコストパフォーマンスのいい,充実した大晦日の過ごし方になると思う。
 ディズニーランドのカウントダウンというのは,ぼくは立ち会ったことがないんだけど,あれはおそらく若い人たちに相応しい催事のように思える。30歳を過ぎているのなら,TDLより東京文化会館の方が似合うのではないか。

● 楽章間で拍手をするようなお客さんはいない。が,1曲の演奏が終わるか終わらないかのときにブラボーを叫ぶ馬鹿はいる。まだ音が残っているのに,聞きたくもない肉声を発するヤツ。
 あまつさえ,前列に座っているのに立ちあがる大馬鹿もいる。当然,視界をさえぎる(まぁ,全員が立ってしまえばいいのではあるが)。その手の大馬鹿はえてしてデブであることが多い。困ったことに。
 そうした行為はカタルシスをもたらすのではあろうけれど,その誘惑に抗し得ないというのは情けない聴き手である。

● 昨今,フライング拍手について何とかしようとする動きがあると聞く。が,そんなものより,フライングブラボーの方が喫緊の対策を要する問題ではないか。
 “大馬鹿”については対策はない。そこまでの馬鹿は放っておく以外にない。

● スタンディングオペレーションが由緒正しい賛辞の呈し方であることは知っている。が,東京文化会館の座席は前後左右の余裕がなく,立ちあがるのは危険だ
 それ以前に,日本においてはスタンディングオペレーションが成り立つ素地がまだ未成熟のように思える。当分は未成熟のままだろう。そんなものは「のだめカンタービレ」の中にとどめておけばよい。

2016年12月30日金曜日

2016.12.28 宇都宮大学管弦楽団 第82回定期演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● 開演は午後6時半。チケットは800円。けれども,今回は招待状で入場。
 チケットで入場する人と,招待状(ハガキ)で入場する人の入場口は分けられている。招待状で入場する人が圧倒的に多い。これはどこでもそうなんでしょうね。

● 年末も押しせまった平日の夜にもかかわらず,総合文化センターのメインホールがほぼ満席。明日から年末年始の休みに入る会社が多くて,その切替えポイントにちょうどいいってのもあるんだろうか。
 だとしてもなかなかのものだ。切替えポイントとして最も多く採用されるのは,“飲みに行く”だろうから。

● クラシック音楽の大衆化はもう行くところまで行っていると思っていたんだけど,そうではなくさらに拡大する余地があって,それが徐々に徐々に進行しているのかもしれない。
 ま,一番目は招待状の集客効果だろうけどね。

● 曲目は次のとおり。指揮は井﨑正浩さん。
 フンパーディンク 歌劇「ヘンゼルとグレーテル」序曲
 ハチャトゥリアン 組曲「仮面舞踏会」
 シベリウス 交響曲第2番 二長調

● ハチャトゥリアンの「仮面舞踏会」を聴くのは,今年3回目。かつ今月3回目。続くときには続くものだな。何度聴いてもいいものはいいので,続くから不満というわけではまったくない。
 1曲目の「ワルツ」はけっこう抑え気味という印象。井﨑さんの解釈なのだろうか。「ノクターン」でもコンミスが静かに弓を操る。

● シベリウスの2番は,昨年の後半に何度か聴く機会がまとまってあった。が,今年になってからは初めてじゃないかと思う。
 で,今回のシベリウスは今まで聴いたものとは違っていたような印象だった。シベリウスの2番ってこういう曲だったっけ,という。
 違っていたといっても,楽譜は同じなのだから,何なのだろう,間の取り方とかそういうところが,独特だったのだろうか。

● 聴きながら,何なんだこれは,と思い思いしたのだけれど,自分の記憶の中にあるシベリウスと何が今回は違っていたのか,突きとめることはできなかった。情けない。
 井﨑流のシベリウスなのだろう。が,何が井﨑流なのかはわからなかったということ。

● ただ,井﨑流を表現するのは学生の団員たちだ。巨匠と若い学生たちが向き合っているわけだけれども,そこに上下関係はたぶんない。
 染めるのは井﨑マエストロで,染められるのは学生たち。しかし,染めるのが才能ならば,染められるのもまた才能である,と言ってみたい。

● そうでなければこういう演奏にはならない。若さと“溌剌”や“清新”は相性がいいのだろうけれど,イコールではない。が,この楽団の演奏は,“溌剌”であり“清新”である。しかもときに“無邪気”であり,ときに“爛熟”も見せる。
 学生オーケストラの世界においては,栃木に宇都宮大学ありと言っていいだろう。学生オケの枠をはずしても,宇都宮大学管弦楽団は栃木県の有力なオーケストラであるように思われる。

2016年12月29日木曜日

2016.12.24 第34回宇高・宇女高合同演奏会(第九「合唱」演奏会)

栃木県総合文化センター メインホール

● 第27回30回32回に次いで,4回目の拝聴。開演は午後1時半。チケットは1,000円。第32回のときは800円だったから,200円の値上げ。必要なら当然のこと。
 この演奏会がかなり混むことは,過去3回で学習しているから,早めに行って行列に加わった。おかげで1階左翼席に座れたんだけど,客席はギッシリビッシリの満員御礼。

● っていうか,立ち見のお客さんも出ていたようだ。それが4人や5人ではなくて,けっこうな数。
 座席数を超えた数のチケットを売ってしまったってことはないだろうから,招待客の歩留まりが予想を超えたってことですかねぇ。いや,ひょっとしてホールの座席数の確認を怠ってしまったのかなぁ。

● 宇都宮高校と宇都宮女子高校の合唱と管弦楽の「合同演奏会」。ゆえに,内容は盛りだくさんになる。
 「第九」は第4楽章のみだけれども,これまでの経験から判断すると,宇女高オーケストラ部の腕前はかなりのもの。「第九」の全部をやって見せろと言われれば,ヒョイヒョイとやってのけるだろう。
 が,宇高・宇女高の合同演奏であることに意味があるのだろうし,となると「第九」の全部をやるってわけには行くまいな。

● つまり,この演奏会の唯一の傷は総花的でありすぎることで,だから毎年行くってことにはなりにくいのだけど。
 しかし,同時にそこがこの演奏会の魅力でもあって,どうにも舵の切り方が難しい。って,ぼくは当事者ではないんだけどさ。

● 主催はOB会,OG会。学校側は表に出ない。たとえば校長挨拶のごとき,ない方がいいものはきちんとないという,整理整頓が行き届いたステージになっている。
 演奏会においては,演奏するのが高校生であろうと中学生であろうと,演奏以外のものはない方がいい。演奏がすべてを語るのだから,余計な講釈は要らないのだ。余計なものがあると,聴く側も集中と緊張をそがれる。
 プログラム冊子にもそのようなものは掲載されていない。OB会,OG会の代表者と両校の顧問の先生,部長の挨拶が載っているにとどまる。

● まずは,宇女高の合唱から。初めて聴いた第27回では,部員の少なさに驚いたものだった。それが嘘のように,豊富な陣容で登場。OGも加わっていたようだけれど。
 こういうのって,顧問の先生が替わると勢いがつくってことなんだろうか。

● 曲目は次のとおり。
 ブリテン「キャロルの祭典」より“入場”など4曲
 クリスマスソング “星に願いを”“サンタが街にやってくる”など4曲

● 後者のたとえば“サンタが街にやってくる”では,歌い手の表情も大切だ。ステージでこの曲を歌うということはつまり,自らがサンタになって客席に福を届ける役を担うことでもあるからだ。
 でもって,その表情を十全に作れていた子が二人いた。たった二人かと言ってはいけない。二人もいたのかと驚くべきなのだ。かなり難易度の高いことなのだから。

● 宇高合唱団はまず,現役生だけで,間宮芳生「合唱のためのコンポジション」Ⅰと千原英喜「どちりなきりしたん」Ⅳ。
 「どちりなきりしたん」とは,「近世初期にイエズス会によって作成されたカトリック教会の教理本」のこと。
 次にOBも加わって,次の3曲。
 多田武彦 男声合唱組曲「わがふるき日のうた」より“鐘鳴りぬ”
 多田武彦 男声合唱組曲「富士山」より“作品第貳拾壱”
 清水 脩 最上川舟歌

● この演奏会では「秋のピエロ」や「斎太郎節」を定番としていたようなんだけど,今回は上記のようなプログラム。
 これだけ多くの人数で,これだけ多彩に男声合唱を展開できる高校があることに,まずは驚かされる。たぶん,栃木県ではこの高校一校にとどまるかもしれない。
 この演奏会のひとつめの山がここにあることに,異論を述べる向きはおそらくないと思う。男声合唱の醍醐味を味わいたければ,この演奏会は狙い目だ。

● 次は両校合同で次の2曲。
 ミュージカル「レント」より“Seasons of Love”
 ミュージカル「レ・ミゼラブル」より“Do You Hear The People Sing?”

● ここから管弦楽が登場。宇高音楽部管弦楽団と宇女高オーケストラ部の合同演奏。チャイコフスキー「くるみ割り人形」から“行進曲”“花のワルツ”など。
 高校生になってから楽器を始めたという弾き手がけっこういるだろう。特に,男子校である宇高の生徒さんは,ほとんどがそうではないか。女子なら小さい頃から習い事で楽器を始めることもあるだろうけれど,男子はなかなかね。
 にしては,チェロで達者に弾きこなす男子(つまり宇高生)がいたのが印象に残った。

● そうして,いよいよ「第九」に突入する。合唱と管弦楽が一堂に会する。合唱には両校の音楽選択生も加わるから,大合唱団になる。壮観と言っていいだろう。
 ヘンデルの「ハレルヤ」で場内を盛りあげてから,「第九」の第4楽章に移るというのが,この演奏会の約束事になっているようだ。

● 第4楽章しか演奏しない「第九」は「第九」ではないと言う人は多いだろうし,ぼくもそう思っている。「第九」で最も重要なのは第1楽章だと考えている。「第九」はあくまで管弦楽曲だ。合唱を主役にしてはいけないものだ。
 そうなのではあるけれども,この演奏会における「第九」は,合唱を聴かせるためにある。管弦楽もソリストも,そのための捨て石にすぎぬ。

● というとさすがに言い過ぎであろうけれど,合唱団の迫力は凄まじい。迫力というより破壊力と言い換えた方がいいかもしれない。
 “「第九」はあくまで管弦楽曲だ”なんぞという小賢しい半可通は跡形もなく吹き飛ばしてしまう。問答無用の説得力をもって,客席を支配する。

● というわけだった。宇高・宇女高合同演奏会,ひと言でいえば素晴らしかった。高校生に素敵すぎるクリスマス・プレゼントをもらったようなもの。
 過去3回もそう思ったはずなのだ。が,雑事に取り紛れて,1年後にはそのことを忘れてしまっているのだ。

● 生徒さんたちはクリスマス・イヴどころではなかったろうな。サービスする側に回ったわけだから,それはそういうことになるしかない。終演後,連れだってスタバでお茶したり,ラーメン屋でお喋りしながら麺を啜ったりはしたのかもしれないけど。
 充実感とか達成感を得ているだろうから,それとバーターってことになるんだろうけどね。

2016年12月28日水曜日

2016.12.23 Christmas Concert 2016 Fantastic4

栃木県総合文化センター サブホール

● 開演は午後2時。チケットは2,000円。当日券を購入。主催者はThe Metropolitan Music。
 これを聴こうと思ったのは,出演者の一人が渡邊響子さんだったこと。今年の9月に「渡辺響子&南部由貴デュオリサイタル」を同じ栃木県総合文化センターのサブホールで聴いて,機会があればもう一度聴いておきたいと思ってた。

● その渡邊さんが一番バッターで登場。チャイコフスキーの「くるみ割り人形」から“おもちゃの兵隊の行進曲”や“花のワルツ”などいくつか。ピアノは滝本紘子さん。
 ぼくの鑑賞能力はライヴを聴くようになってからもほとんど変わっていない。低位安定。彼女の水準になれば,もうぼくの鑑賞能力を超える。誰の演奏も同じに聴こえる。
 ほかの人はどうなのだろう。渡邊さんの演奏とたとえば諏訪内さんの演奏をCDで聴いて,区別がつく人っているんだろうか。

● 次は滝本さんのピアノソロ。演奏したのは次の曲。
 モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」序曲
 モーツァルト トルコ行進曲
 チャイコフスキー 「四季」より“12月”
 カッチーニ アヴェ・マリア
 坂本龍一 戦場のメリークリスマス

● 今回のこのコンサートはクリスマスコンサートというくらいだから,肩の凝らない,よく知られた曲を選んでいるのだろう。聴く側が畏まったり構えたりしないですむような曲。
 けれども,ぼくなんかはわりと息をつめて聴くのが好きだったりする。クラシックとはそういうものだと刷りこまれているのかもしれないけれど。

● ところで。この部分は曲ごとに滝本さんのMCが入った。彼女の口から発せられる話し言葉のイントネーションが妙に懐かしいのだ。理由は考えるまでもなかった。栃木弁のイントネーションだったからだ。語尾が独特なわけだよね。
 彼女は茨城県の出身だったのだ。そうかぁ,ぼくらと同類かぁ。

● 群馬,栃木,茨城は北関東という括りで括られる。ところが,言葉に関する限り,群馬は栃木,茨城とは違っている。訛り方が別もの。
 その点,茨城と栃木はよく似ている。一衣帯水といってもいいのではないかと思う。地名は群馬が上野,栃木が下野なのに対して,茨城は下総と常陸。だけど,言葉からだけ判断すると,栃木は群馬より茨城に近い。

● 弘前の旅館に泊まったことがある。地元民どうしの話を聞いていると,意味不明ってことはけっしてないけれども,これも日本語なのかと思う程度には独特だ。が,彼や彼女がぼくと話すときには,標準語になる。東京人も喋らないような完璧な標準語。
 しかし,ぼくら北関東の人間は,どうやっても標準語を話すことはできない。栃木人や茨城人の中に,自分は標準語を話せると思っている人がもしいるとすれば,何の躊躇もなく断言しよう。それはキミの勘違いだよ。

● 次はソプラノの西口彰子さんが登場。ピアノは滝本さんで,滝本さん,ここまでずっと出ずっぱり。
 ヘンデル 「メサイア」より“喜べ,シオンの娘よ”
 エリック・サティ あなたが欲しい
 ドビュッシー 家のない子のクリスマス
 プッチーニ 「ラ・ボエーム」より“私が街を歩くと”
 フレデリック・ロウ 「マイ・フェア・レディ」より“踊り明かそう”

● たとえば銀座のクラブでナンバーワンになるホステスは美人ではないと言われる。美人でなければ,どういうのがナンバーワンになるのかといえば,明るいブスだ,と。明るいブスは明るい美人に勝る。ましてや,暗い美人より断然いい。すなわち,最強である。
 ということらしいんだけど,これは眉ツバだと思うね。何らかの劣等感を克服して,ひと皮むけた感じの女性がいれば,それはモテるはずだけれど,明るいブスという括りは大雑把に過ぎるでしょ。

● 西口さんは美人で笑顔。声楽の人って,表情筋が発達しているというか柔らかいというか。職業柄だろうけどねぇ。
 美人で笑顔なんだから,天下に敵なし状態になる。客席からの支持も集めやすい。
 美人だ笑顔だっていうその前に,実力があってのことだけれどもね(いや,美人だ笑顔だっていうのが実力の前にあるのかもしれない)。

● 次はチェロの宮地晴彦さん。ピアノ伴奏は室塚佳子さん。曲目は次のとおり。
 チャイコフスキー アンダンテ・カンタービレ
 チャイコフスキー ノクターン
 チャイコフスキー 奇想的小品

● つまり,オールチャイコフスキー。「アンダンテ・カンタービレ」をチェロ&ピアノで聴くのは,これが初めて。
 Wikipediaの解説によれば,「チャイコフスキーの隣に座っていたトルストイは(この曲を聴いて)感動のあまり涙を流した」とある。こういうエピソードを知ると,そこまでの感性を持ちあわせていない自分を歯がゆくも思ったりするけれどね。このあたりはでも,しょうがないね。

● 弦楽四重奏曲第1番の第2楽章。クラシックの楽曲の中でも,よく知られた名曲ということになるのだろう。もちろん,CDで何度も聴いてはいる。
 が,高い水準の演奏を生で聴くのと,CDで聴くのとでは,やはり印象が違ってくる。ここでもやはり鑑賞能力の問題になるんだと思う。CDでビシッと印象を作れる能力の持ち主なら,ライヴは聴かなくてもいいのかもしれない。しかし,ぼくはその能力を持っていない。

● 最後は,西口,渡邊,宮地,滝本のオールキャストで,シューベルトの「鱒」。これも贅沢な体験になるでしょ。
 シューベルトが生きていた時代,彼を助けるというか彼を認める仲間がいて,シューベルトを囲んで小さな演奏会を開いていたらしい。そこで演じられていたのはこんな感じだったかと思いながら聴いた。ま,違うんだろうけどね。

● 芸術を仰ぎ見る(仰ぎ聴く?)という感じではなかったんだと思うんですよね。むしろ,ポップスに対するがごとくの距離感だったのではないか,と。
 だとすると,そこまで距離を詰めるのはなかなかってことになりますかね。これまた,致し方がないところだろうな。

2016年12月20日火曜日

2016.12.18 第9回栃木県楽友協会「第九」演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● この「第九」演奏会も今年で9回目。ぼくは2回目から聴き始めて,第4回は聴けなかったんだけど,それ以外は聴いている。ので,今回が7回目になる。
 第5回のときだったか,客席に若干の空きがあるのを見て,「第九」人気に若干の陰りが出てるのかと思った。が,今回は3,4階のバルコニー席を除いてほぼ満席。「第九」人気は続いているのだった。

● 「第九」は合唱団とソリストが必要になるわけだから,装置を整えるだけでも大変。裏方の苦労は相当なものだと推察する。
 しかも,この「第九」は地元調達を基本方針としているから,表と裏がないまぜになっているだろう。表の苦労と裏の苦労の両方を引き受けている人もいるに違いない。

● 管弦楽は栃木県交響楽団。栃木県楽友協会管弦楽団というのが正式名称のようなんだけど,実質的には栃響で,そこにエキストラが何人か加わっているという感じ。
 昨日聴いた真岡市民交響楽団のコンミスもその“エキストラ”で入っていた。あるいは,昨夜の真岡オケの演奏会に賛助で出ていた栃響の団員が何人もいる。本番の連チャン。この時期は忙しいなぁ。

● 開演は午後2時。指揮は荻町修さん。ソリストは松野典子さん(ソプラノ),荻野桃子さん(メゾ・ソプラノ),岩瀬進さん(テノール),荒井雄貴さん(バリトン)。
 「第九」の前座(?)は,ヨハンシュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」序曲。この演奏会では,この曲を持ってくることが多い。手慣れた曲にして管弦楽の負担を減らすためかとも思われる。
 栃響ってアマオケとしては,おそらく活動過多になっている。それでも一定水準以上にこなしてしまうのは,実力派が数多くいることの結果だ。
 そうはいってもこれ以上に負担を増やすのは,傍から見ていてもいかがなものかと思う。増えてもぜんぜんOK,むしろ望むところだ,という人たちもいるっぽいんだけど。

● ぼくは「第九」の肝は第1楽章にあると思っている。その第1楽章はホルン,オーボエ,フルートで決まる。演奏に対する印象というのは,演奏開始後の数分間で決まってしまう。その印象がその後の演奏によって覆ることは,まずないとしたものだ。
 しかし,何事にも例外というのはあるんだな。今回は,第4楽章の例の有名すぎる旋律を奏でる前のところで,ゾクッときた。
 あれは何だったのか。この数秒間に世界が凝縮されている,思想も宗教も何もかもすべてが詰まっている,といった感覚。

● 「第九」は生でCDで何度も聴いているけれど,こういう感覚を味わったのは初めてだ。もうないかもしれない。たぶん,ないだろう。
 どういう理由でそうなったのかはわからないけれど,この数秒間を味わえただけで,今回は良しとする。

● 「第九」はあくまでも管弦楽曲であって,合唱がメインではない。栃木県では栃響の演奏で満足できなければ,もうその後はないわけだ。
 強いていえば,もっと高い料金を払ってプロオケの演奏を聴きなさい,と言うしかない。日フィルの演奏会が毎年,宇都宮で催行されているから。
 なぜこんなことをウダウダと書いているか。数秒間の震えを味わえたものの,全体としてはかすかに“飽き”が自分の中に兆しているのを感じたからだ。

● 演奏する方はどうなんだろうか。この曲を演奏することに飽きる。あり得ないでしょうね。
 でも,聴く側のぼくには“飽き”が兆している。その理由は“聴きすぎ”にあるのかもしれない。それ以前に,弛みのようなものが出ているのだろう。
 しかし,次回は節目の第10回。何かサプライズがあるような気がする。

2016年12月19日月曜日

2016.12.17 真岡市民交響楽団 第54回定期演奏会

真岡市民会館 大ホール

● クラシックの演奏をライヴで聴いてみようかとふと思って,初めて聴いたのが真岡市民交響楽団第41回定演だった。そこで何だこんなものかと思っていれば,その後はなかった。
 現在まで続いているのは,ぼくにとってはこのうえない幸運だったけれども,それもこれもあのときの演奏が熱演であって,何も知らなかった自分の何かを捕らえたからだと思う。
 曲はブラームスの2番だった。けれども,別の曲であっても,結果は同じだったはず。曲ではなくて演奏がぼくを捕らえた。この曲ではダメだったろうと思える曲なんて,探す方が大変だ。
 というわけだから,この楽団には個人的に格別の恩義を感じている。

● しかし,ここのところ,やむを得ない事情からなんだけれども,この楽団の演奏会に行けないことがしばしばあった。真岡じたいから遠ざかっている。
 なんだか,真岡がアウェイになってきた感がある。去る者日々に疎し,といったところ。何とかしないといけない。

● 1年ぶりになる。春の演奏会は都合がつかなかった。
 開演は午後6時。チケットは500円。当日券で入場。指揮者は佐藤和男さん。曲目は次のとおり。
 ベートーヴェン コリオラン序曲
 ハチャトゥリアン 組曲「仮面舞踏会」
 チャイコフスキー 交響曲第1番「冬の日の幻想」

● ハチャトゥリアン「仮面舞踏会」は先週も聴いたばかりだ。こういうことってわりとあるね。確率の偏りというか,同じ曲がある時期にドッと演奏されるってこと。
 音楽として見れば,第1曲の“ワルツ”を聴ければ8割を聴いたことになるっていう感じ(素人の感想だと思う)。“ノクターン”のコンミスのソロも聴かせどころではあるんだけど。

● ぼくはチャイコフスキーの6つの交響曲も,CDはカラヤンで聴いている横着者だ。しかも,スマホ+イヤホンでしか聴かない。
 となると,CDについて語ってはいけないことになる。と言いながら語ってしまうんだけど,カラヤンだろうとムラヴィンスキーだろうと,CDでチャイコフスキーを聴いても隔靴掻痒の感がある(しっかりと道具立てを揃えて聴けばそんなことはないのだろうか)。何かが足らない。

● 音しかないからだ。音があれば充分だろうと言われるかもしれない。が,それで充分だと思えるのは,聴くことにおいて相当な水準に達した聴き巧者に限られるのではないか。聴き巧者の多くは実際に演奏する奏者(もちろん指揮者を含む)でもあるだろう。
 ぼくはダメだ。音だけではその演奏についてのイメージを作るのに,まったく情報不足だ。
 視覚が欲しい。奏者が演奏している様が目の前で展開するという状況で初めて,その曲に対する感想を形作ることができる(それでもできない場合もある)。

● 「冬の日の幻想」とはチャイコフスキー自身が付けた標題であるらしい。ロシアの冬だ,日本の冬とは寒さの質が違うだろう。幻想など見れるような寒さではないんだと思うんだけど,家の中で外を見ながらってことなんだろうか。ロシア人の寒さへの耐性っていうのは,ぼくらとはまるで違うんだろうけどね。
 ま,本質とは何の関係もない話。

● 今回の演奏で最も印象に残ったのは,第2楽章のオーボエ。最初に主題を歌うところ。
 こういうところでオーボエは真骨頂を発揮する。そのように作曲家が組み立てているんだろうけれど,“真骨頂を発揮する”と感じさせる演奏だった。

● ティンパニを担当していた女性奏者は何者? あたりを払うような存在感があった。ただ者ではない感を発散していたというか。
 コンミスの踏みこみの良さ。女だてらに(あるいは女なればこそ)果敢に斬りこんでいく様が小気味いい。
 というわけで,今回も演奏そのものに不満はなかった。

● アンコールもチャイコフスキー。「眠りの森の美女」より「ワルツ」。この曲をこれだけの人数で演奏すると,チャイコフスキー自身が構想した曲とは別のものになっているのかもしれない。
 が,そうであっても,いいものはいいということでしょうね。

● 指揮台にスコアはない。佐藤さんは暗譜で振る。今回に限らない。いつもそうだ。
 個々の指揮者によってそれぞれの流儀があるのだろう。どれが良くてどれが悪いという問題ではないはずだ。

● 団員の確保に苦しんでいるようだ。ヴァイオリンやヴィオラでエキストラが過半に達している。東京だとアマチュアオーケストラは毎年増えているという印象があるんだけど,地方ではそうじゃない。
 想像をたくましくすれば,地元在住で地元で働いているという団員はあまりいないのだろう。多くは転勤族(あるいは,その夫人)で,たまたま真岡(あるいは,その近隣地)に通勤しているからその間はオケ活動をやれるけれども,転勤して真岡を離れてしまうと,団員であることもやめざるをえない,となるのかも。
 となれば,これは真岡市民交響楽団のみならず,どこでも同じ問題を抱えているはずだ。

● 栃木県でアマオケの活動拠点になっているのは,真岡のほかに,宇都宮,足利,栃木,鹿沼,大田原,小山,野木だったか。
 今だと宇都宮でも団員確保の苦労から免れているとは考えづらい。こういうところでも地方の苦労というのはあるのかもなぁ。
 こうすれば解決するという処方箋などあるはずもない。地道なリクルートを継続するほかないのだろう。

2016年12月13日火曜日

2016.12.11 東京大学フィルハーモニー管弦楽団 第38回定期演奏会

川口総合文化センター リリア メインホール

● 東京大学の冠が付くオーケストラは4つある。東大純正の東京大学音楽部管弦楽団のほかに,東京大学フィロムジカ交響楽団東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団,そして東京大学フィルハーモニー管弦楽団の3つのインカレ・オーケストラ(東大の学生が占める比率は,3割程度か)だ。
 東大の五月祭や駒場祭に行くと,この4つのオーケストラの演奏をまとめて聴くことができる。実際,五月祭にも駒場祭にも出かけたことがある。のだけれども,大学祭に自分のようなロートルが紛れ込んでしまうのは,学生さんの迷惑になるかもしれないと思って(つまり,いるだけで迷惑。場の雰囲気を壊す),ここ2年ほどは自重している。

● さて,東京大学フィルハーモニー管弦楽団の演奏を聴くのは,2年前の駒場祭以来。定期演奏会に限れば,3年前の32回定演以来。
 開演は午後3時。入場無料。指揮は濱本広洋さん。曲目は次のとおり。
 ボロディン 「イーゴリ公」より「ダッタン人の踊り」
 ハチャトゥリアン 組曲「仮面舞踏会」
 チャイコフスキー 交響曲第4番

● 前回聴いた定演から,メンバーはほとんど入れ替わっているのではないかと思う。3年も前なんだから。
 3年前に比べると,かなり巧くなっていると思われた。「ダッタン人の踊り」が始まって数秒後には,そう思っていた。メンバーの入れ替わりによるものでしょうか。

● ハチャトゥリアン「仮面舞踏会」は,浅田真央が演技用の音楽に採用してから,コンサートで聴く機会が増えた。今は減ってしまったと感じるのは,浅田の低迷と関係があるのかないのか。
 彼女の世界の1年は,普通の仕事に従事している人の3年分や5年分に当たるのかもしれない。彼女は10代半ばからずっとトップを張ってきた。マスコミに追いかけられてきた。もういいんじゃないかと,ぼくなんぞは思ってしまう。
 もう長い間,充分に戦ったのだから,と申しあげたいところだけれど,そうも行かない事情が何かあるんだろうか。

● 「仮面舞踏会」は,1曲目の“ワルツ”と2曲目の“ノクターン”の対比に惹かれる。ハチャトゥリアンに対比する意図はないのかもしれないけれど,“ワルツ”の華やかさ,何とはなしのデコラティブな感じに対して,静謐な“ノクターン”。ここはコンミスの腕の見せ所でもある。

● こういった“ワルツ”と“ノクターン”の対比云々ということを言っていられるのも,演奏がいいからなんだよね。演奏がダメだとそういうところに行かないで終わる。
 この楽団のサイトには,練習は週1回だと書いてあるんですよ。けれど,腕に覚えのある人たちが集まっているんだとしても,週1の練習のみでこの水準を維持することができるんだろうか。
 できないよね。ということは,他の楽団にも参加している団員が相当いるんでしょうね。

● チャイコフスキーの4番も,同じ印象。木管が目立つ曲だから,木管に目(耳)が行くことになる。ホルンをはじめ金管も何だか凄い感じ。弦は言うにや及ぶ。
 冒頭のホルンとファゴットが奏でるファンファーレ。これから始まるこの曲は,つまりはこういう曲なんですよ,と聴衆に告げるわけだけれど,この部分をここまでの水準で表現できるアマチュアオーケストラはそんなにないのじゃないかと思う。
 そうでもない? これくらいは普通なの?
 アンコールもチャイコフスキー。「エフゲニー・オネーギン」よりポロネーズ。

● というわけで,演奏は堪能できる水準に仕上がっていた。来年は創立20周年になるらしい。記念行事を何かやるんだろうか。募金を募っているとアナウンスがあった。
 これだけの演奏を聴かせてもらえれば,たいていの人は募金に応じるはず。ぼくも些少ながら。

● ただし,唯一の傷が客席にあった。乳児の泣き声が何度か響いてしまったんだね。演奏の途中で指揮者が振り向いて睨みつけるという一幕があった。
 ここまで底が抜けた馬鹿がどうして出てしまうのか。生まれて間もない乳児をこれほどの音圧にさらせば,泣きだすに決まっている。奏者や他の聴衆に迷惑がかかるというレベルを超えて,演奏会を壊してしまうことになる。
 それ以前に,そんなことをするのはわが子を拷問にかけるようなものだろう。虐待のひとつに数えていい。正気の沙汰とは思えないんだがな。

● ひょっとすると,団員の知り合いなんだろうか。生まれたばかりの子供を連れてきて,紹介しようと思った。育休で休んでいる女子社員が乳飲み子を連れて職場に来ることがあるけれども,そんなノリで来たのかもしれない。
 もしそうならなおのこと,受付で撥ねないといけない。かなりやりづらいだろうけど,撥ねないと。
 通した以上は,そこから先の展開は想定の範囲内にあるはずで,主催者側の一員である指揮者が睨むというのもおかしなものだ,となってしまう。あんたが入場を認めたんだよね,ってことだもん。

2016年12月5日月曜日

2016.12.04 モーツァルト合奏団 第18回定期演奏会

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 開演は午後2時。入場無料。

● 今回の曲目は次のとおり。
 メンデルスゾーン 弦楽のための交響曲第2番 ニ長調
 バッハ ヴァイオリン協奏曲第2番 ホ長調
 モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」より抜粋
    序曲
    序奏「5・・・・・・10・・・・・・20・・・・・・」
    「もしも踊りをなさりたければ」
    「もう飛ぶまいぞ,この蝶々」
    「スザンナ,すぐ出ておいで」
    「スザンナは来ないかしら」
    フィナーレ
 ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第11番 ヘ短調(弦楽合奏版)

● かなり魅力的なラインナップ。これなら,聴きに行かざるべからず。
 最も印象に残ったのは,バッハのヴァイオリン協奏曲第2番。ソリストは江刺由梨さん。東京音大附属高校の3年生。地元の出身者であるらしい。
 弦が幾重にも折り重なるようにして,あぁバッハだなぁと思わせる響きを作る。その響きを作るのは,じつは奏者の楽器だけじゃない。

● ホールも表現者になる。バッハの曲ってそうじゃないですか。響きを響かせるホールの実力っていうのが,わりと前面に出る感じがする。
 バッハを響かせるのに合ったホールっていうのがありそうだ。宮城県の中新田バッハホール(1981年開館)が老舗だけれども,那須野が原ハーモニーホールもまた,かなりの実力の持ち主であるようだ。

● ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第11番も聴きごたえあり。CDでは何度も聴いているはずなのだ。が,11番ってこういう曲だったのかと初めて知った気分になった。CDでは何を聴いていたんだろう。
 終演後の団長あいさつで,この曲にはだいぶ手こずったという意味の話があった。楽譜をなぞるだけでも,相当な難曲であるのだろう。

● しかし,曲にいたぶられた(?)成果は間違いなく出ていたようだ。曲が元々備えているのであろうメリハリがきちんと表現されていたし,静から動への間合いも,これが本来なんだろうなと納得させるものだった(静と動って便利な言葉だから,つい使いたくなる。可能な限り遠ざけた方がいい常用句のひとつだろうね)
 粛然として襟を正さしめるところはあくまで粛然と,時々現れる軽ろみのところは,きちんと軽く。
 表題の「セリオーソ」とは「厳粛に」との意味らしい。そのように演奏しようとあえて思わなくても,曲がそれを強制するといった具合であろうかと推測する。

● この合奏団の演奏会の楽しみは演奏のほかにもうひとつある。それは何かと申せば,女性奏者のドレス。思い思いのカラフルなドレス。黒一色よりずっといいですよね。華やぎがある。黒一色では重厚感が強くなりすぎる。
 それにだ,言っちゃ何だけど,カラフルは七難隠すぞ。

● ところが。ステージ登場したのは黒一色のカラス軍団なんでした。アレッと思った。
 2曲目のバッハ「ヴァイオリン協奏曲」に登場するソリストのために,自分たちは自重しようということのようだった。
 そのあとは,カラフルで登場したからね。もっと派手でもぼくはいいと思うけど。

2016年11月29日火曜日

2016.11.27 日本IBM管弦楽団 第28回定期演奏会

文京シビックホール 大ホール

● このホールに来るのは2回目だ。JR水道橋駅から歩く。けっこうな距離を歩くことになる。途中に遊園地(東京ドームシティ アトラクションズ)があったりするから,かなりの混みようになる。すなわち,歩きづらい。
 それなのに,水道橋には各駅停車しか停まらない。

● 日本IBM管弦楽団は前から気になっていた楽団だ。なぜ気になっていたかというと,かなり水準の高い企業オケだと聞いたことがあったからだ。いずれは聴きに行かなきゃと思っていた。
 で,今日,それを果たすことができた。

● 開演は午後2時。チケットは2,000円。アマオケとしては強気な値付けではないか。当日券を購入して入場。
 指揮は曽我大介さん。曽我さんを指揮者に迎えることができるのは,それに相応しい演奏をするからに違いない。

● 曲目は次のとおり。
 リムスキー=コルサコフ スペイン奇想曲
 ムソルグスキー(リムスキー=コルサコフ編) 交響詩「はげ山の一夜」
 ボロディン 歌劇「イーゴリ公」から「だったん人の踊りと合唱」
 リムスキー=コルサコフ 交響組曲「シェエラザード」
 かなりとんがった選曲だよねぇ。とんがった選曲ができるというのは,実力がある証拠だよ。

● そこで,結論を先に書いておこう。聞いていたとおりだった。つまり,上手が集まっている楽団だった。これなら2,000円は強気な値付けではない。納得の料金だ。
 いくつかのパートで団員募集中だけれど,ここに入ってやっていくとなると,それ相当のレベルが求められる。単純に大学でオケをやっていたというだけでは,尻込みしたくなるだろう。

● 「シェエラザード」ではコンマスのソロが何度も出てくる。そのソロが圧巻の巧さ。この人,何者だ? 本当にIBMの社員なのか。アマチュアとは思えなかったね。コンクールの入賞歴もあるんじゃないのかな。
 他にも,木管はどれも相当なものだったし(特筆すべきはファゴット),要するにどのパートも巧い。

● 曽我さんは指揮台に上がるや,すぐに棒を振り始める。準備はいいかい,がない。プロっぽくなるね。
 アマチュアだからという容赦はないように思えた。テンポにおいても場面転換においても。テンポは速め,場面転換は瞬時。つまり,オケは気を抜くことを許されない。

● 「だったん人の踊りと合唱」で登場した「一音入魂合唱団」もIBM社員が運営しているらしい。管弦楽と合唱の両方を社内で賄えるところはそんなにないのじゃないか。
 一音入魂とは営業方針をそのまま名前にしたものか。

● アンコールは,ケテルビー「ペルシャの市場にて」。市場は世相の縮図というより,世相の極端なところが集まる傾向があるんじゃないかね。
 人と金が集まるんだから,それを求めて物乞いも集まる。その物乞い役で登場したオジサンがいたんですよ。これが非常にいい味で。
 ワイシャツの下のボタンを外して,腹が見えるようにして。視線をユラユラさせて。なかなかの芸達者。真剣にかつユッタリと物乞いの役を演じていた。

● このオジサン,ひょっとするとこの楽団の後援会長を務めているIBMの小出常務だったりする? そうだとすれば(そうであってほしいのだが),IBMって素敵な会社だ。
 こういうときこそ,役員が平社員のサーバントになって場を盛りあげるのは,じつに理にかなっているぞ。

● これまで聴いたことのある企業オケは,JR東日本新日鐵マイクロソフトリコー日立。そして,今回がIBM。理系の企業が多い感じ。
 音楽って,医学を含む理系と相性がいい感じがある。音楽を理解するために最も必要なセンスというのは,おそらく数学的なものだと思う。数式をパパッと理解できるセンス。

● 今はlenovoに移譲しているけれども,IBMが製造販売していたThinkPadは,憧れのノートパソコンだった。黒くて無骨な四角い箱。いかにも頑丈な道具といった趣を漂わせていた。
 初めてThinkPadを所有したときの嬉しさは,今でも憶えている。以後,パソコンはThinkPad一筋。
 こういうのってどうでもいいことなんだけど,そのどうでもいいことが日本IBM管弦楽団の演奏会に足を向けさせる理由のひとつになっているわけだ。

2016.11.23 第7回音楽大学オーケストラ・フェスティバル-桐朋学園大学・昭和音楽大学

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● 今年で7回目になる音楽大学オーケストラ・フェスティバル。首都圏の9つの音楽大学の競演(あるいは協演)。4回に分けて行われる。会場は東京芸術劇場とミューザ川崎が受け持っている。ぼくは4回目から拝聴している。
 過去3回は通し券を買っていた。1回あたり750円という驚愕の安さ。もっとも,1回券でも1,000円なので,1回でも行けない日があると,通し券の旨味(?)は消し飛ぶことになる。セコい話で申しわけありませんがね。
 で,ぼくは栃木の在から出かけていくわけで,4回とも行けることはあまりないってのが体験してみてわかった。ので,今回は通し券は買っていない。

● ということではない。今回は,たぶんこの日しか行けそうにない。じつは,この日も行けるかどうかわからなかった。要するに,家庭の事情というやつだ。
 今までは,そういうものを相方に押しつけて,自分は気楽にコンサートに出かけていくといった図式を貫いてきたんだけど,そうしたお気楽をいつまでも続けるわけにも行かない。

● でも,今日は相方のお許しが出たので,一路,川崎へ。途中,自治医大駅で下車して,「休日おでかけパス」を購入。
 上野東京ラインができて,川崎は宇都宮から乗換えなしで行けるようになった。たかが乗換えなんだけど,その“たかが”を省略できるのはとてもありがたいのだった。

● クラシック音楽の消費の旺盛さという点で世界一なのは,ドイツでもオーストリアでもイタリアでもフランスでもなく,極東のわが日本ではないかと思うことがある。
 カラヤンの全盛期に,日本はカラヤン帝国の忠実な植民地だと揶揄する人がいたようだ。つまり,カラヤンのCDが最も売れるのが日本だったから。
 しかし,それだけのCDを買う人がいたという事実の重さをこそ,思うべきだろう。誇らなくてもいいけれども。

● のみならず,夥しい数のコンサートやリサイタルが催されていて,その多くにかなりのお客が入っている。
 その夥しい数のコンサートの中でも,この音楽大学オーケストラ・フェスティバルはかなり美味しいコンサートではないかと思う。

● まず,演奏水準が素晴らしく高い。数あるプロオケにはたぶん技術では及ばない。しかし,1回の演奏にかける時間と“思い”の質量はプロオケの比ではないだろう。それが演奏に現れる。音大生が今の年齢だからこそできる演奏というのもあるはずで,その演奏を聴ける貴重な機会となる。
 指揮者もこの国を代表する錚々たる人たちが登場する。秋山和慶,高関健,下野竜也,井上道義さんなど。
 それなのに,チケットは1,000円。ほとんどタダみたいなものだろう。したがって,万難を排してでも聴きに行くべきものだと,ぼくは思う。

● わが家に関していえば,排すわけにもいかない事情があってね,という煮えきらない態度になってしまうんだけど。
 個別事情と一般論は合致しないことがしばしばある。合致しない場合は,必ず個別が一般に勝つ。

● ともあれ。今日は桐朋学園大学と昭和音楽大学。
 桐朋は,モーツァルト「ディヴェルティメント ニ長調 K.136」とバルトーク「管弦楽のための協奏曲」。昭和音大は,チャイコフスキーの5番。
 指揮は桐朋がジョシュア・タン。中国系シンガポール人。昭和音大は渡邊一正さん。

● モーツァルトのディヴェルティメントをこれだけの人数で演奏しても,音にブレが出ない。
 あまり技巧に走るところもないし,多くの人に知られている曲だから,逆にごまかしが利かない。妙なネタの仕込み方をすると,すぐにバレる。直球勝負で行くしかない。
 桐朋なればこそ,こういう演奏ができる。

● プログラム冊子の解説によれば,バルトーク「管弦楽のための協奏曲」の初演は1944年,ニューヨーク。その初演は大成功だったらしい。この曲が初演で成功を収めたとは,少々意外だ。
 と思ってしまうのは,ぼくが“クラシック音楽=古典派的調和”を前提にしてしまっているからで,ピカソの抽象画を訳がわからないものと受け取ってしまうのと同じだろう。
 こう来たんだから次はこうなるという予測を裏切ってくれる。そのうち,予測じたいが立てられなくなる。振り回されるという感じになる。その振り回され方が小気味いいから聴いていられる。

● 演奏する側にとっても,バルトークのこの曲はかなり難易度が高いと思われる。しかし,そこは演奏するのが桐朋学園オーケストラだからね。乱れがないとか安定感があるとかそういう水準を超えて,こういうふうに演奏したい,ここはこう表現したいという,オーケストラの意思が感じられる。
 まぁ,こちらの思い入れがそう思わせる部分があるのかもしれないけれど。
 指揮者とオケの関係も良好。学生にしてみれば,ジョシュア・タン氏は兄貴のような存在なんだろうか。

● 桐朋学園の演奏が終わったところで帰る人がいる。一方,それを見計らったように入ってくる人もいる。それぞれの大学の関係者,あるいは演奏者の友人なのだろう。
 ぼくは全部聴かないとチケット代がもったいないと思ってしまうケチな性分だし,栃木の在から来ているわけだから,途中で席を立つことはあり得ない。
 が,自由な聴き方でいいよね,とは思う。おいおい,全部聴いてから帰れよ,などどは思うまい。

● チャコフスキーはこうすれば聴衆は喜ぶだろう,こうすれば聴衆の腑に落ちるだろう,ということをよくわかっていて,そのとおりに曲を仕上げていったのではないかと思うことがある。
 こうなってくれたら嬉しいなと思っていると,実際にそのとおりになっているという感じなんだよね。

● 演奏したのは昭和音楽大学管弦楽団。さらに洗練させる余地があると感じた。それはそうだ。音大といえど学生の時点でその余地がないまでに洗練されていたら,それは伸びしろがないということにもなりそうだ。
 彼らの多くは普通の企業に就職していくのだろう。ずっと演奏に携わる道に行く人は少数派に違いない。4年生なら,音楽三昧の日々を送れるのはあと少しだ。

● その思いをぶつけるような,迸りと言いたいほどの勢いを感じさせる演奏だった。奏者にも出し切った感があったのではないかと推測する。
 チャコフスキーの5番は,とにかくポピュラーだ。それもあってのことと思うけれども,ブラボーッの声が何度も客席にこだました。

● というわけで,幸せな時間を過ごすことができた。やはり,音楽大学オーケストラ・フェスティバルは可能な限り出かけていくべきだなぁ。
 もうひとつ。ミューザ川崎のホールスタッフのホスピタリティーが素晴らしい。これもまた,幸せ度をあげる要因のひとつになっている。

2016年11月28日月曜日

2016.11.19 LINE-T Saxophone Ensemble 3rd Concert

宇都宮市立南図書館 サザンクロスホール

● 県内にクラリネットやフルートのアンサンブルがあることは知っていたけれど,サクソフォンもあったのか。しかも,今回が3回目だという。迂闊なことだった。
 開演は午後2時。入場無料。

● プログラム冊子に載っていた紹介によると,LINE-TのLINEは“つながり”で,Tは“手塚正道”。手塚正道つながりということらしい。
 では,その手塚正道とはそも何者? これがよくわからないんだけれども,ともかく,手塚正道さんが中心になっているユニットであるようだ。

● 約90分のコンサート。2部構成。演奏された曲目は次のとおり。
 第1部
 マゼリエ ファンタジーバレエ
 ピエルネ 民謡風ロンドの主題による序奏と変奏
 村松崇継 生命の奇跡
 第2部
 ゴスペル・メドレー-アメージング・グレース,アイ・ウィル・フォロー・ヒム
 スタジオジブリ・メドレー-海の見える街,風の通り道,人生のメリーゴーランド
 和泉宏隆 宝島
 フォスター Winter Games

● 以前,管弦楽の演奏を聴いていて,サクソフォンの音をクラリネットと間違えたことがある。その程度の耳の持ち主が,まぁ,あまりアレコレと言わぬが身のためだ。

● サクソフォンって,対応域が広いというか,単独でもかなり多様な表現ができる楽器だと思う。ソプラノサックスからバリトンサックスまであるわけだから,それらをすべて使えばそれこそミニオーケストラ的にもなる。アルトサックスだけでもいろんな音を吹き分けることができそうだ。
 つまり,何が言いたいかというと,ぼくがサックスをクラリネットと間違えたのも,無理からぬところがあるんじゃないかってことなんだけどね。いやいや,間違えないだろ,普通,ってか。

● 出演者の中に「ご来場のみなさまにお楽しみいただけますよう,私自身が全力で楽しみたいと思います」と書いている人がいた。
 “楽しむ”という言葉を独特の意味で使う人がいる。SMAPの木村拓哉君だ。木村君は「今を全力で楽しむ」という言い方をする。ドラマで主役を演じているときも,ステージで歌っているときも,「SMAP×SMAP」でコントをやっているときも,全力で楽しんでいるのだろう。
 つまり,木村君のいう“楽しむ”を日常用語の楽しむと受け取ってしまっては,微妙に間違えることになりそうだ。

● 今回の出演者の「私自身が全力で楽しみたい」というのも,たぶん同様だろう。正真正銘,自分が楽しんでしまっては,聴き手を楽しませることはできない。
 練習だってそうだよねぇ。楽しい練習をしちゃったんじゃ,上達しないのじゃないかと思う。楽しくない練習を楽しみながらする,という達人の境地を目指すというならわかるんだけど。
 聴き手を楽しませるために自分が楽しんでいるフリをする,そのようにして客席を盛りあげる,というのは大いにありそうだ。そういう意味での言葉だと受け取っておくべきでしょうね。

● そうしてそれは達成されていたようだ。つまり,楽しい演奏会だった。
 手塚さんのキャラクターによるものだろうか。チームワークが非常にいい。チームで閉じていないで,外に向かって開かれているようでもある。
 演奏水準がどうこうという以前に,こういったところが誘引力になるのではないかと思わせる。後味のいいコンサートになった。

● 第2部では宇都宮工業高校吹奏楽部の生徒さんたちも登場。若さっていうのは,それだけで力を持っている。それがうまく出ると,強力なアシストになれる。
 LINE-Tの側が高校生をノセることに成功したというべきなのかもしれないけれど,どっちにしても,高校生が存在感を発揮していた。

2016年11月14日月曜日

2016.11.13 ハイクラッド コンサート

さくら市ミュージアム エントランスホール

● 開演は午後2時。入場無料。ただし,さくら市ミュージアムの入場券は買わなくてはならない。その入場券が300円。

● ハイクラッド(Hyclad)とは,ギターの伊藤芳輝さんとヴァイオリンのYuiさんのユニット。結成は2012年。
 当日,配られたプログラムノートにProfileが掲載されているのだが,それによれば,Yuiさんは「2010年より,以前から興味のあったフラメンコ音楽に傾倒し」,「フラメンコギタリストの伊藤芳輝と共にジプシークラシックをテーマにDUOユニット『Hyclad』を立ち上げ」とある。

● フラメンコ,ジプシー。お二人の嗜好というか,やりたいこと,あるいは自分はこういう佇まいでありたいという指向性,それを伝えるキーワードなのだろな。
 演奏した曲目は次のとおりだ。
 ファリャ スペイン舞曲第1番
 サティ ジュ・トゥ・ヴ
 ピアソラ オブリヴィオン(忘却) リベルタンゴ
 ラフマニノフ メロディー
 ビゼー 「カルメン」より4曲
 モンティー チャルダッシュ
 ブラームス ハンガリー舞曲第5番

● ピアソラはジプシーとはあまり関係ないと思う。のだけれど,ジプシー音楽と親和性が高い。どういうわけだろうね。アルゼンチンのタンゴとヨーロッパのクラシック音楽を融合したといえば聞こえはいいけれど,どちらにも定住できなかったところから来る何ものかが,ジプシーの民と通底するんだろうか。
 ぼくは「リベルタンゴ」は演歌じゃないかと思うことがあった。辛い渡世だねぇ,人間って悲しいねぇ,っていう訴えを感じてしまうものだから。
 まぁ,演歌っていうのはちょっと違うよね。でも,漂白の民で,どこにいても自分はよそ者と感じつつ生きるのがジプシーだとすれば(これって,たぶん,浅薄すぎる理解でしょうけど),演歌=ジプシー=ピアソラ,というメチャクチャな等式を強引に成立させてしまうこともできるのじゃないか(できないか)。

さくら市ミュージアムの入場券
● お二人の喋り(MCというのか)も面白かった。伊藤さんはどこからでもジャブを繰りだせる人のようだ。あえて繰りださないで相手の出方を待つところもあって,そのあたりは当意即妙という言葉そのもの。
 Yuiさんも,頭の回転が速い人のようで,伊藤さんのジャブを軽く受けてひょいと返す。
 もっとも,お二人はずいぶん活発にライヴ活動を重ねている。演奏のみならず,喋りについてもキャッチボールの体験は充分すぎるほどにあるのだろう。

● 絵的にも様になる。美男美女といってよいでしょうね。しかも,一癖ある美男美女。
 文学的美男美女と言っておこうか。いよいよ,どういう意味なのかわからなくなってくるけどね。

● さて,演奏だけれども,これを無料で聴いていいのか,とまず思った。さくら市はだいぶ太っ腹だ。どういう交渉をしたのだ? ハイクラッドの二人が折れたのかもしれないけどさ。
 ギターはジワーッと染みてくる。ヴァイオリンは自在に動く。地に潜り,空を飛ぶ。ぼくは最前列で聴けたんだけど,ずーっとゾクゾクしていた。

● 二人はサービス業に徹している感があった。芸術ってこういうものだよと高みから教えを垂れるのではなく,ステージ=教師,客席=生徒,という関係を作るのではなく,音楽というサービスをお客さんに届けることに一意専心。
 お客の質が高ければ高いなりに,そうでないならそうでないなりに,ともかくお客を楽しませること。
 自分たちはそれで食べているんだという覚悟のようなものを感じた。

● もちろん,それを支える技術がなければ,覚悟は覚悟だけで終わるだろう。が,この二人はプロなんでした。もの作りができる人たちなんでした。

● ところで。このコンサートを知ったのは,JR氏家駅に置かれていたチラシでだった。じつに幸運だった。電車に乗ることがなければ,知らずに過ぎたろうからね。
 たぶん,さくら市のホームページにも告知はあったんだろうけど,ぼくには見つけることができなんだ。

2016年11月6日日曜日

2016.11.04 作新学院高等学校吹奏楽部 第51回定期演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● 5月にフレッシュグリーンコンサートがあり,7月に東京農大二高とのジョイントコンサートがあった。わが家にも諸般の事情ってやつがあって,いずれも聴きに行くことができなかった。
 三度目の正直,定期演奏会だけは聴きに行かないと。作新学院吹奏楽部,栃木県吹奏楽界(社会人も含めて)の,おそらく最高峰だろう。

● 開演は午後6時。チケットは800円(当日券は1,000円)。前売券を買っていた。
 そうしておいた方が,間違いなく,会場に自分の身体を運んでいくことになるから。800円がもったいないっていうセコい発想でね。

● 第1部。コンクール・ステージとでも言えばいいのか。吹奏楽のコンクールでよく取りあげられる楽曲を演奏。
 結論を先に書いておく。どのパートにも穴はない。パート間の連携にも綻びはない。鉄壁の守備を誇る。
 吹奏楽の何たるかを知りたかったら(感じたかったら),作新学院吹奏楽部の定期演奏会の第1部を聴けばよい。

● 曲目は次のとおりだった。真島さんの曲が多いのは,4月に亡くなった真島さんへの作新吹奏楽部のオマージュであろうか。
 真島俊夫 ナヴァル・ブルー
 R.ミッチェル 大草原の歌
 ヤン・ヴァン・デル・ロースト カンタベリーコラール
 森田一浩編 ミュージカル「レ・ミゼラブル」より
 真島俊夫 吹奏楽のための交響詩 波の見える風景
 真島俊夫 富士山

● どれか1曲だけもう一度聴かせてやると言われれば,「波の見える風景」かなぁ。
 基本的には風景を描写した曲と考えていいんだろうけど,“折りたたみ”が凄いんですよね。重層的というのか。右から描いていたかと思うと左からの描写になり,また右に戻り,という。
 それでいて,華やかで聴衆にアピールする。つまり,大衆性も併せ持っている。小説にたとえれば,芥川賞と直木賞のどちらにもノミネートされそうな曲だ。

● 第2部はポップス・ステージ。というより,お楽しみステージ。演奏した曲目は次のとおり。
 真島俊夫 スウィングしなけりゃ意味がない
 鈴木英史編 糸
 真島俊夫 スペイン
 三宅裕人編 栄冠は君に輝く
 星出尚志編 モヒート
 真島俊夫 夢-岩井直溥先生の思い出に
 星出尚志編 ジャパニーズ・グラフィティⅩⅩ
 星出尚志編 塔の上のラプンツェル・メドレー

● ここでも真島さんの曲が3つ入っている。「夢-岩井直溥先生の思い出に」は第1部の方が場としては相応しいかもしれない。が,そういう細かいことはどうでもいいね。
 ここでも,この生徒さんたちの技術に舌を巻くことになった。どんな曲でも弾きこなすし,ノリもいい。

● 「スペイン」で初めてダンスが入った。当然,部員たちによるダンス。なかなか演奏ほどの切れ味というわけにはいかないんだけれども,客席から見て左端に登場した“男装の麗人”が一番目立ったね。美味しい立ち位置だよね。客席の視線を独り占めできるはずだ。
 ここは男になりきって踊るのが吉。それでも現れてしまう女の部分が,客席にアピールするわけだから。宝塚の男役も同じだろうね。
 まだ男になりきっていないところがあったから,そこが少し残念。って,そこまで気を入れないといけない場面ではないのかもしれないけれど。

● ここからしばらくは甲子園の話題。応援の様子を再現。もちろん,ミニチュア版での再現になる。
 作新野球部は甲子園の常連だ(今年で6回連続か)。初めてこの演奏会を聴いたときにも,これがあった。あ,この演奏会は校内行事なんだなと思った。
 ところが,今年は優勝しちゃったからね。そうなるとひとり作新学院にとどまらず,栃木県全体のビッグイッシューになる。今回に限っては校内行事的色彩は払拭されることになった。

● 「ジャパニーズ・グラフィティⅩⅩ」は小林亜星作品集。小林亜星といえば,はるかな昔のテレビドラマ「寺内貫太郎一家」に主演して,息子役の西城秀樹と劇中でしょっちゅう喧嘩をしていたのが記憶に残っているんだけども,本職はそちらではなくて,作曲家。
 魔法使いサリーとか,ひみつのアッコちゃん,「まんが日本昔ばなし」の主題歌「にんげんっていいな」も彼の作だったのか。一方で,都はるみが歌った「北の宿から」も。大変な才能だったんだねぇ。

● 第3部はドリル。ライオン・キング・メドレー。このステージは作新学院吹奏楽部の独壇場でしょうね。追随できるところはないのじゃないかと思う。
 この演出とラインの取り方は誰が考えるんだろう。イチから設計していたのではとても間に合わないだろう。基本的なパターンがいくつかあって,あとはその組み合わせってことになるんだろうか。

● 小道具や衣装は「保護者の方々の手作り」ということなんだけど,衣装なんかかなり本格的で驚く。
 凧鳥(と,勝手に命名)もよくできていた。こういう方法もあったのかと,見せられて初めて気がつく。

● あとは,パーカッションのレベルの高さ。これなくしてドリルはありえない。
 最後まで手抜きはなかった。当たり前と言えば当たり前なんだけれど,この当たり前を当たり前のようにできるところが,作新学院吹奏楽部の凄さであるわけだ。

● 以上でプログラムは終了。が,その後もお楽しみが続くのが,この演奏会の恒例だ。
 まず,部長挨拶。毎年そうなのだが,この挨拶には感心させられる。ひとつには,自分の言葉で語っていること。それから,気持ちが乗っていることだ。
 今回の挨拶は,苦労話はミニマムにして(これだけの演奏会を現出するんだから,キャプテンに苦労がなかったはずはないのだ),顧問の先生をはじめ,関係者と観客に感謝申しあげます,というのをメインにした。抑制の効いた立派な挨拶だったと思う。

● さて,今回の演奏会で最も印象に残ったのは何かというと,じつは開演前のプレ演奏だった。ステージの左側(客席から見て)でサックス部隊が「情熱大陸」を演奏したんだけれども,そのサックスが素晴らしかった。
 これだけで,チケット代の元は取ったぞと思った。

2016年10月31日月曜日

2016.10.29 第21回コンセール・マロニエ21 本選

栃木県総合文化センター メインホール

● コンセール・マロニエ21のやり方が今回から大きく変わった。前回までは,声楽,ピアノ,弦,木管,金管の5部門を,2部門ずつ開催してきた。
 したがって,本選は正午から始まって,終了は18時を過ぎるというロングランだった。

● 今回から1部門開催になった。奏者の持ち時間を増やしてきたようではあるけれど,13時に始まって15時30分に終了した。時間も半分になった。
 その代わり,表彰式までステージでやるようにした。従来は会場内のレストランでやっていたようなのだが。

● プログラム冊子に載せている審査員長の沼尾雄司さんの「ご挨拶」の文章を読めたことが,今回の一番目の収穫だ。
 芸術を採点し,順位をつけることなど本来できません。そこには様々な尺度があり,ひとつのひとつの基準を設定することは不可能です。もしもひとつの基準だけになってしまったら,それはもはや芸術ではない何か別のものだと言わざるをえないでしょう。
 ではなぜ,コンクールが存在するのか。参加者にとっての意義,審査員や聴き手にとっての意義を述べている。
 聴き手や審査員にとっても,コンクールは自らの音楽経験を振り返る,大変よい機会になります。まだ世の中には出ていない若い演奏家たちと出会い,一体,自分が彼らの「何を」「どのように」評価し得るのだろうと問うてみることは,間違いなく聴き手を成長させるものでしょう。
● とはいえ,世間は実も蓋もないところがあって,1位者に仕事をさせたがる。彼には仕事の依頼が殺到し,2位以下の者には依頼が来ない。
 コンセール・マロニエがそこまでの影響を持つコンクールかというのは別にして(っていうか,1位になってもなかなか仕事が来ないというのが,実際のところなのかもしれない。現実はかなり厳しい),それでも結果の数字が一人歩きを始めることは,ごく普通にある。

● 次なる収穫は,コンクールでしか聴けない曲を聴けるということだろうか。特に金管部門に顕著だけれど,普通のコンサートではまず舞台にかからない曲を聴くことができる。
 ぼく一個にとっては,演奏者が世に出ているかいないかはどうでもいいことだ。コンクールのファイナルに残るほどの人たちの演奏だ。まずもって不満のあろうはずがない。
 おそらくだけれど,四半世紀単位で過去を振り返ると,このクラスの演奏水準は相当に切りあがっているのではないかと思う。今の普通は昔の普通ではない。

● ともあれ。今回は声楽。トップバッターは陳金鑫さん(バリトン)。中国の黒竜江省の出身で,現在は藝大の院で学んでいる。歌ったのは次の3曲。ピアノ伴奏は奥千歌子さん。
 R.シュトラウス 「8つの歌」より“8.万霊節”
 ジョルダーノ 歌劇「アンドレア・シュニエ」より“祖国の敵”
 グルック ああ私のやさしい熱情が

● あたりまえのことを感じた。歌うのは日本人である必要はないのだ。音楽に国境はないという事実。
 同時に,それはヨーロッパ生まれのヨーロッパ育ちの音楽だという事実も。ヨーロッパの普遍性のようなものも,癪だけれども思わないわけにはいかない。

● 陳さん,漢民族ではなく,モンゴル系の人ではないか。だからということではないのだけれども,懐かしい声だ。そう,懐かしい。かつてどこかで聴いたことがあるような。
 素朴さを感じた。素朴である分,間口が広い。聴衆を選ばない。

● 次は和田しほりさん(ソプラノ)。2年前のこのコンクールに出ていた。歌ったのは次の3曲。ピアノ伴奏は矢崎貴子さん。
 R.シュトラウス 「6つの歌」より“3.美しい,けれど冷たいのだ天の星たちは”
 レオンカヴァッロ 歌劇「道化師」より“鳥の歌”
 ドニゼッティ 歌劇「アンナ・ボレーナ」より“わたしの生まれたお城”

● 「道化師」も「アンナ・ボレーナ」も,オペラとしてはわりとマイナーなのではないか。そうしたオペラのアリアもまた,生で聴ける機会はそうそうないとしたものだ。
 このあたりが聴き手にとってのコンクールの功徳であるわけだ。

● ところで,その聴衆なんだけど,回を追うごとに増えているように思う。ガラガラという範疇での話だけれど,前はほんとにパラパラだった。それが,けっこう入るようになっている。
 理由はわからない。コンクールのお得さがだんだん認知されてきたんだろうか。

● 佐藤亜理沙さん(ソプラノ)。藝大の院生。
 ドボルザーク 「ジプシーの歌」より
  “1.私の愛の歌が再び響く”
  “2.ああ,私のトライアングルは何て美しく響くの”
  “3.あたりの森は静まり返り”
  “4.老いた母が教えたまいし歌”
  “5.弦の調子に合わせて”
  “6.幅広い袖とゆったりとしたズボン”
  “7.鷹に金の鳥籠を与えても”
 プッチーニ 歌劇「マノン・レスコー」より“ひとり淋しく捨てられて”
 「ジプシーの歌」をこれだけ聴ける機会も,たぶんこの先ないのじゃないかと思う。ピアノ伴奏は木邨清華さん。

● 佐藤さんに限らないのだけれども,声楽の人たちって登場するときからにこやかだ。声楽家特有のサービス精神が若い頃から身についてる。
 そこから出発した方が声が出やすいんだろうか。

● ヴィタリ・ユシュマノフさん(バリトン)。ロシアはサンクトペテルブルクの出。すでにCDもリリースしているなど,実績のある人ですね。
 ジョルダーノ 歌劇「アンドレア・シュニエ」より“祖国の敵”
 トスティ 「アマランタの4つの歌」より“1.私をひとりにしてくれ!息をつかせてくれ”
 ヴェルディ 歌劇「ドン・カルロ」より“私の最後の日が参りました”

● この人の凄さは,ピアノの伴奏でアリアを歌っているのに,オペラ全体の場面,つまり舞台の設えや登場人物の配置など,を彷彿とさせるところだ。役になりきることが上手いというか,スッと没入できるゆえかもしれないと思った。
 山田剛史さんのピアノもそれを助けていたかもしれない。攻めの伴奏という感じでね。

● 飯塚茉莉子さん(ソプラノ)。ピアノ伴奏は原田園美さん。
 R.シュトラウス 「4つの歌」より“2.チェチリーエ”
 ドニゼッティ 歌劇「アンナ・ボレーナ」より“わたしの生まれたお城~邪悪な夫婦よ”

● 安心して聴いていられる。安定感がある。すでに相当な場数を踏んでいるのだろう。

● 上田純子さん(ソプラノ)。今回,唯一の地元出身者。ピアノ伴奏は矢崎貴子さん。
 ラフマニノフ 「6つの歌」より“4.歌わないでおくれ,美しい人よ”
 モーツァルト 歌劇「イドメネオ」より“お父様,お兄様たち,さようなら”
 グノー 歌劇「ファウスト」より“宝石の歌”

● カルメンのミカエラ役が似合いそうな人。これは見た目の印象。
 細密な声質の持ち主。細密な声質というのも妙な言い方だけれども,声が粒の集合だとすると,その粒が小さく,その代わり数が多いという感じ。

● 山下裕賀さん(メゾ・ソプラノ)。ピアノ伴奏は奥千歌子さん。
 ブラームス 「ダウマーによるリートと歌」より“8.風もそよがぬ生ぬるい空気”
 ブラームス 「5つの詩」より“5.エオリアンハープに寄す”
 ドニゼッティ 歌劇「ラ・ファヴォリータ」より“ああ,私のフェルナンド”

● 圧倒的な声量と音圧が客席を圧倒した。スター誕生。歌うために生まれてきた人なんだなと思った。

● 以上で終了。このあとすぐに表彰式があるとのアナウンスがあったけれども,表彰式は見ないで会場をあとにした。結果(順位)は知らない方が,このブログを書きやすいので。
 この種のコンクールって運もあるね。今回の入賞者はかなり水準が高かったのじゃないか。

2016年10月25日火曜日

2016.10.22 宇都宮シンフォニーオーケストラ 秋季演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● この日は宇都宮市の大通りでJBCF宇都宮クリテリウムが開催された。宇都宮市内で開催されるイベントとしては,メインの位置に登りつめた感がある。
 何気にバスに乗ったら,大通りを走れないので遠回りするよ,というアナウンスがあった。すべての車が大通りを締めだされるわけなので,迂回路になる道路も混む。総合文化センターくらいだったら,歩いた方が速かったね。

● 自転車に乗る人,ずいぶん増えたと思う。その大半は自転車で通勤したり,休日にサイクリングに出かけたりする程度のライトな自転車乗りだろう。ジャパンカップなんか観戦しても仕方あるまいと思うんだけど,そこはそれ,自分とは隔絶した世界の人たちが競う様を生で見る感動というものがあるだろう。
 で,思うんだけど,音楽を聴く人と自転車に乗る人はけっこうかぶるんじゃないか。自分がそうだから尚更そう思うのかもしれないけれども,音楽と自転車ってけっこう相性がいいように思う。

● 自転車を趣味にしている人って,学校の体育の成績は悪かった人が多い。自転車と山歩き(トレッキング)のふたつは,ウンチ(運動音痴)でも楽しめる。
 でもって,音楽ファン(聴く方の)もウンチが多いんじゃないかと思ってるんだけどね。
 ともあれ,宇都宮シンフォニーオーケストラとクリテリウム,両方を見たい。が,どちらかひとつしか選択できない。となれば,ためらいなく前者を取るわけだが。

● “ベートーヴェン・チクルスvol.5”と銘打たれている。途中,ブラームスやブルックナーを演奏したこともあるので,チクルスというには少々時間がかかりすぎているかも。
 とはいえ,順調に回を重ねて,そろそろ次は第九をやるのかなと思わせる。

● この楽団の演奏は2009年から聴いている。途中までわりと距離を感じたというか,遠い存在だった。理由はわからない。
 が,聴く回数が増えるにつれて,その距離感がとれてきた感じ。そこは自ずとそうなるものだろうけどね。

● 開演は午後3時。チケットは1,000円。当日券を購入。
 曲目は次のとおり。当然,オール・ベートーヴェン。指揮は石川和紀さん。
 歌劇「フィデリオ」序曲
 ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調「皇帝」
 交響曲第6番 へ長調「田園」

● コンミスは今回も高木早紀さん。賛助という形なんだけど,彼女がいるといないとではだいぶ違う(ように思える)。
 「フィデリオ」序曲でまずはお披露目。市民オーケストラって,国内にどれほどの数で存在するのか。そのすべてを聴くなどとは,冗談でも言ってはいけない数だろう。
 したがって,市民オケのアベレージがどのくらいのものなのか,ぼくにはわかりかねる。あくまで自分が聴いたことのあるわずかな数しか踏まえない発言なんだけれども,この楽団はその水準を抜いていると思われる。
 しっかりとした安定感がある。これが「フィデリオ」の序曲なんだよ,わかった? って言ってるようなね。

● ピアノ協奏曲の5番。ソリストは栗田奈々子さん。若き見目麗しいピアニスト。現在はドイツに留学中。
 若いだけじゃない。見目麗しいだけじゃない。本当に自分にわかっているんだろうかと不安を抱えながら申しあげると,才能が迸るような演奏を見せてくれる。生まれてくるのがあと30年か40年も早ければ,ビッグネームとはいかないまでも,すでにミドルネームにはなっているのではないか。

● しかるに,毎年毎年,若い才能が登場するのに,年寄りがなかなか引退しない。したがって,席が空かない。滞留が生じる。流れが悪くなる。若い演奏家は明らかに割を喰っている。
 だからぼくらは,若い演奏家を応援しようではないか。栗田奈々子,憶えておくに値する名前だろう。

● 「田園」はベートーヴェンの9つの交響曲の中では,わりとつまらない1曲ではないかと思っている(ベートーヴェンの9つの交響曲の中では,だよ)。
 5楽章という破天荒な構成を採用した。「田園」とは言いながら,単純な風景描写ではないのかもしれない。けれども,退屈を感じることがあるんだよね。おまえだけだよ,って言われるかもしれないんだけどさ。

● もっとも,聴き手からすればそうでも,奏者側,特にオーボエ奏者に言わせれば,絶対につまらない曲ではないんだろうな。
 ここでも安定した演奏で(とはいえこれだけの曲なんだからノーミスはあり得ない),こちらとしては「田園」に遊ぶことができた。

● で,最初に戻るんだけれど,交響曲は9番しか残っていないのじゃないか。たぶんそうじゃないかなぁ。交響曲なしの演奏会はちょっとないだろうから,次はやはり第九かねぇ。
 合唱団とソリストはどう手当てするのか。それを含めて楽しみだぞ。

2016年10月15日土曜日

2016.10.15 間奏50:弦楽四重奏は聴き手を鍛えてくれる?

● 12日(水)に宇都宮市の総合文化センターで弦楽四重奏のコンサートがあった。当日券で聴きに行こうと思っていたんだけど,こういうときに限って仕事が延びるというのは,ままあることだ。
 結局,間に合いそうになくて,断念した。

● なんだけど,行けたとしても行ったかどうか,われながら疑念がある。気乗りがしなかったのも事実なので。
 こんなブログを書いているんだから,足繁く通って,その体験を面白い読みものとして再現する。その作業をもっと緻密に,もっと力を注いでやらないといけない。
 だから,気乗りがしないなどと言っていないで,行くべきなのだろうな。

● もっとたくさん聴いて,聴き手としての自分を鍛えなければ。今からでは手遅れだなどと,後ろ向きになっていないで。
 ライヴもそうだけれども,CDも活用しないとね。せっかく今の恵まれた環境(スマホやウォークマンで,どこでも聴ける)に生きているのだから。
 そうやって地道にCD(をリッピングした楽曲データ)を聴いて,聴き手として成長すること。かつ,その過程じたいを楽しいものにすること。

● そうしたうえで,演奏する側の人たちの背中を押せるようなブログを書けるようになること。そうじゃなければブログを書いている意味がない。自己満足でもいいんだけどさ。
 どうせなら,読んでもらえるブログ,参考にしてもらえるブログをめざしたい。媚びなくても奏者に伝わるブログでありたい。

● 12日のほかにも,8日と10日にも地元(宇都宮,大田原)で弦楽四重奏のコンサートがあったのだ。弦楽四重奏の集中ウィークだった。いずれもプロの奏者。
 これらも聴くつもりではいたんだけど,それぞれ理由があって,聴くことは叶わなかった。

● 小規模の演奏は,奏者にとってもごまかしが利かないという意味で,緊張するものだろう。聴く側にとっても鑑賞能力を問われることになる。オーケストラと違って,ひっかかりが少ない。聴き手にとっても逃げ場がない。
 それを文章にして公開するとなると,とんでもなくピンぼけたことを書いてしまわないかと怖れる。

● でも,その経験を重ねていかないとしょうがない。弦楽四重奏に限らず,小規模で演奏されるものの方が,聴き手を鍛えてくれる。
 その分,何と言うのかな,少々気重にさせるところもあるわけですね。

2016年10月14日金曜日

2016.10.10 豊島区管弦楽団 第84回定期演奏会

板橋区立文化会館 大ホール

● 昨日は早とちりをして,錦糸町に向かうべきところを荻窪に行ってしまった。今日はそういうことのないように再度チェック。
 宿泊していたホテルから芝公園まで歩いて,都営三田線で板橋区役所前駅まで乗る。

● 会場の板橋区立文化会館に行くのは初めてだ。板橋区役所前駅から徒歩約7分とあった。が,その倍はかかったと思う。もっとかかったかもしれない。
 たぶん,遠回りをしてしまったんだと思う。途中,グリーンホールというのがあった。これも区立の施設ではないのかと思うんだけど,これはまた別のもの。
 ここから文化会館はすぐそこという距離のはず。なんだけど,ここからどちらに行けばいいのかわからなくなった。

● グリーンホールに付近の案内図があった。グリーンホールと道路を挟んだ反対側に板橋大山公園がある。それも案内図には載っている。
 したがって現在地はわかる。まぎれがない。しかし,どうもグリーンホールと大山公園の位置関係が地図とは逆のようなのだ。
 ということはつまり,どっちに行けばいいのか。右に行ったらいいのか左に行ったらいいのかがわからない。

● ま,しかし,無事に到着した。かなりの余裕をみて到着したはずなので,入場する前に遅めの昼食を摂っておこうと思っていた。んだけど。
 午後3時開演と思っていたら,2時開演だった。結果的にそれでもセーフだったんだけど,昨日に続いての勘違い。どうしちゃったのかね。

● 昼食の時間はない。当日券(800円)を買ってすぐに入場。曲目は次のとおり。
 グラズノフ 交響曲第9番 ニ短調
 ショスタコーヴィチ 交響曲第9番 変ホ長調
 ドヴォルザーク 交響曲第9番 ホ短調「新世界より」 
 「3曲の交響曲第9番を組み合わせた,珍しいプログラム」ということ。

● 指揮は和田一樹さん。その和田さんが「ハイアワサの歌」を紹介している。飢饉で妻を亡くす男の話。アメリカ先住民の話だ。
 じつは,ドヴォルザークはそれを第2楽章に取り入れているのではないかというのだ。「ハイアワサの妻のミネハハが飢餓と熱病に侵されつつもハイアワサを呼びながら息絶える様子を美しく表現している」と。
 “新解釈”といっていいのだろうか。少なくとも,ぼくは「ハイアワサの歌」をまったく知らなかったから。

● 「家路」のイメージが植え付けられているからね,これが息絶える様子を表現しているとは驚いた。そうだと思って聴けば,思えなくもない。静かで染みてくるような音楽だから。
 が,たぶん,違うと思うなぁ。飢餓と熱病と死。どう表現しても,こうはならないような気がする。死以外のものを表現していると思う。それが何なのかはわからないけれど。

● ちなみに,望郷の思いでもないと思うんですよねぇ。この時期,ドボルザークはホームシックにかかっていたとも言われるんだけれども,それをストレートに出してはいないような気がするなぁ。
 ま,このあたりの解釈というか受けとめ方は,徹頭徹尾,主観で通せるから,いかようにでもなるというところがあるんだろうけど。

● ショスタコーヴィチの9番。ショスタコーヴィチのしたたかさを感じる人が多いのじゃないかと思う。ぼくもその一人だ。
 周囲(=ソヴィエト上層部=スターリン)の期待,要望をわかっていながら,軽快でユーモラスな曲に仕上げて差しだした。もちろん,彼なりの計算があったはずだろう。このとき,ショスタコーヴィチはどういう計算をしていたのか。

● 豊島区管弦楽団,かなりの達者で構成されている。弦,木管,金管,パーカッションとも,堅固な安定感がある。
 アマチュアの市民オケって分類になるんだろうけど,ここまで巧い市民オケってそうそうない。ぼくの視聴体験ではそういう結論になる。でも,アレなのか,東京ではさほど珍しくないのだろうか。

● 帰りは,東武東上線で池袋に出た。会場から徒歩3分のところに東上線の大山駅がある。わずかな距離だ。ところが。
 会場にも案内図があった。ここまでの行路はわかるわけだから,ここから駅までどこをどう行けばいいのか,迷う余地はないはずだ。
 しかし,どっこい。逆方向に歩いていたんだなぁ。5分ほど歩いたところでおかしいと思い,文化会館に戻った。再度,地図を確認。さすがにそれでわかった。
 ぼくは地図を読めない男なのだ。地図を見るのは大好きなんだけど。

2016年10月12日水曜日

2016.10.09 都立西高OB吹奏楽団 第38回演奏会

杉並公会堂 大ホール

● 急遽,東京に出ることになった。相方の提唱によるものだ。
 東京ならどこかで演奏会をやっているはずだ。その中からひとつ選んで聴きに行こう。せっかく東京に行くんだったら。

● で,「フロイデ」をチェック。ザッツ管弦楽団の演奏会に行くことにした。マーラーの6番をやる。指揮者は田部井剛さんだ。ザッツ管弦楽団の演奏を聴いたことはないけれども,これならまずハズレにはならないだろう。
 開演は午後2時。今から出ても間に合う。よし,これにしよう。

● というわけで,新宿から中央線に乗り換えて荻窪で降りた。杉並公会堂へ。
 ところが。会場はすみだトリフォニーホールなのだった。なぜかしら,杉並公会堂だと思いこんでしまったのだな。
 もちろん,今から引き返していては間に合わない。

● しかも,杉並公会堂でも同じ午後2時から演奏会が入っていた。それが都立西高OB吹奏楽団の演奏会。うぅぅむ,マーラーのつもりが吹奏楽か。
 吹奏楽,もちろん嫌いじゃない。けれども,マーラーから吹奏楽だ。この切替えは容易じゃない。
 その原因を作ったのが外部にあるのであれば,そこに当たれば気が紛れる。が,原因のすべては自分の早とちりだ。

● ともかく入場。入場無料。
 第一部は“アメリカ大陸をめぐる旅”と称して,次の5曲。
 シェルドン メトロプレックス
 シュバルツ 「ウィキッド」セレクション
 作曲者不詳 アメイジング・グレース
 ホゼイ ターコイズ・ディドリームズ
 ナバーロ 交響詩「リベルタドーレス」

● 司会者(というか案内者)が熱演。が,ぼくたちは本当に自由なんだろうか,真の幸せって何だろう,と投げかけられても,ちょっと困るんだな。言葉遊びに類することを問われても,鼻白む以外の対応は難しい。
 問うているわけではないんだけどさ。純粋キャラを演じているだけなんだろうけど。

● このOB吹奏楽団,卒業したばかりの10代の若者から60歳を過ぎた人までいる。でも,メインは若い人たちだ。だから純粋キャラも出てくるのだろうし,それが許されるのでもある。
 それでいいのだと思う。いつまでもOBやOGでいてはいけないものだろう。OBやOGもいずれは卒業しなければならないものだと思う。

● 第2部は,“日本人が作曲・編曲した曲”を集めた。次の5曲。
 宮川 泰ほか ジャパニーズ・グラフィティⅫ「松本零士メドレー」
 郷間幹男編 ゲッタウェイ
 真島俊夫 夢-岩井直溥先生の思い出に
 山内雅弘 架空の伝説のための前奏曲
 すぎやまこういち 交響組曲ドラゴンクエストより

● 吹奏楽の演奏会に乳幼児を連れてくる人がいるんだよね。しかも,そういうヤツって前に座るから,目立つんだ。
 何を考えてそんなことをするのかと思うんだけど(基本的には何も考えていないから,そういうことをするのだ),たぶん,この演奏会は同窓会的機能も若干は果たしていて,同窓生に会うために来たよ,っていうことなのだろうと推測する。やっと子どもも生まれたんだよ,とお披露目するとかね。

● が,子どもにとって,これは拷問だろうよ。こんな音圧に耐えられるはずがない。当然,激しく泣いて抵抗する。
 乳幼児の泣き声は,“聴く”を妨げる要因としては第1位の栄誉に輝くものだ。だから,その子を抱いて会場を出て行く。のだが,泣きやむと戻ってきてしまうのだな。それを繰り返す。
 何度,わが子を拷問にかければ気がすむのだ。際だった馬鹿とは,こういう親を指すためにある言葉だろう。

● 待て待て。間違って来たうえに,ここまで言いたい放題かよ。と,お叱りを被りそうだ。演奏それ自体についても語っておかねば。
 吹奏楽と管弦楽はまったくの別物だ。何が違うかといえば,吹奏楽はノリがいい。客席を乗せて,そのノリをフィードバックしてもらって,自分たちもさらに乗っていこうとする。そういう趣がある。
 イメージとしては自由奔放だ。といって,演奏する側が本当に自由奔放にやったんじゃ,アンサンブルにならない。だから,指揮者もいる。

● この楽団は,基本的に行儀がいい。アンサンブルをきっちりやっていこうとしており,それに成功しているように思えた。
 もともと腕に覚えのある人が残っているのかもしれないね。どのパートがどうということでもなく,いずれのパートも高値安定というか。
 逆に,客席を乗せようとアピールするときには,その真面目さがやや邪魔をすることがあるかもしれないとも思えた。

2016年10月4日火曜日

2016.10.01 エコキャンドルコンサート

瀧澤家住宅 鐵竹堂(さくら市櫻野)

● タイトルからはどんなコンサートなのか推測できない。“さくら市「生涯学習推進月間」オープニングセレモニー”という副題が付いている。さくら市主催の催しものだ。
 教育長なんかのあいさつがあって,瀧澤家住宅がいかに価値の高い建築物かの説明があって,そのあとに,さくら市出身の海老澤栄美さんのクラリネットコンサートがある。

● 開会は18時30分。入場無料。少し遅れたので,あいさつは終わっていた。瀧澤家住宅についての説明から聞くことになった。もう少し遅れてもよかったかも。
 瀧澤家住宅の鐵竹堂に入るのは,これが2回目になる。氏家には「氏家雛めぐり」という行事があって,その会場のひとつに鐵竹堂がなっていた。今年の2月に行っている。要するに,お大尽様の邸宅だ。

● さて,海老澤栄美さん。彼女のクラリネットを聴くのは,じつは初めてではない。宇都宮クラリネットアンサンブルの演奏会を二度聴いているので。その主宰者が海老澤さんではなかったか。
 今回は,ステージも客席もない。同じ部屋でやっているわけだから,奏者との距離が近い。近いところから見ると,ホールから見る印象とはだいぶ違ってくるものだね。

● どんなふうに違うかといえば,ホールのステージに立っているところを見ると,どんな人だってある種の貫禄をまとっている。そういうふうに見える。気圧されるところがある。ステージと客席の構造の然らしめるところかもしれない。
 けれども,これだけの距離で眺めると,そういう妙なものが立ち現れてくることがない。等身大というか,栃木で育った人だなというところまで伝わってくる。

● 演奏した曲目は次のとおり。
 ホールニューワールド
 ちいさい秋見つけた 夕焼け小焼け 花(喜納昌吉)
 クラリネットポルカ トロイメライ(シューマン)
 青春の輝き(カーペンターズ)
 リベルタンゴ(ピアソラ)
 秋桜(さだまさし)
 タイム・トゥ・セイ・グッバイ

● 鐵竹堂は典型的な日本家屋。木と紙でできた家だ(その木がとんでもなく素晴らしいわけだが)。壁や天井に行った音はすべて通過するか吸収されて,跳ね返ってくることはない。
 したがって,届いてくるのは直接音だけになる。これだけ奏者が近いとそれで充分。

● クラリネットも歌うんだってことをあらためて知った。日本の歌曲を聴くと,特にそう思う。「ちいさい秋見つけた」なんか,ほんとに歌っているなって感じなんですよね。

● 「秋桜」も山口百恵が現れたのかと思った。
 今の年齢の山口百恵に会いたいとは正直思わないけれども,「秋桜」を歌っていた頃の山口百恵は,何ていうんだろうな,有無を言わさない存在感を漂わせていましたよね。歌は上手いとはいえないし,演技も同様。けれども,それでいて辺りを払うような圧倒的な存在感があった。もちろん,こちらはテレビと映画(「伊豆の踊子」と「潮騒」は見たよ)でしか見たことがないわけだけれども。
 その山口百恵,こんなふうに歌っていたなと思いだしましたよ。

● 「リベルタンゴ」は不思議な曲だ。ぼくは日本の演歌を連想する。演歌とは似ても似つかないんだけど,辛い渡世だねぇと語っているようなところが共通しているっていうか。
 「リベルタンゴ」が辛い渡世にため息をもらしているわけではないんだけど,ぼくはそういう聴き方をしてしまっている。なので,二度三度と繰り返して聴くのは苦しかったりする。
 ピアノ伴奏は渡部沙織さん。リベルタンゴはどちらかといえば,伴奏の方が重要かもしれない。

● アンコールは「情熱大陸」。これも伴奏が重要。アンコールでこれが聴けたのは嬉しかったです。気持ちが高揚する曲だものね。
 以上,1時間足らずのミニコンサートだった。

● 海老澤さん,小学4年生で吹奏楽を始めた。
 フルートをやりたかった。で,希望どおりフルートになったんだけれども,1年後にクラリネットが足りないからと言われて、いやいやながらクラリネットに移った。ところが,これが大正解。自分に合っていた。もし,フルートのままだったら,途中でやめていたろう。
 というような話をされた。よくある話だと思う。予め自分が立てた目標や計画に縛られない方がいいという教訓だ。

● お客さんはお婆ちゃんとお爺ちゃん,小学生,中学生が多かった。その間があまりいない。
 つまり,その間の人たちは,この時間帯に家を空けることは難しいのかもしれないね。

2016年9月26日月曜日

2016.09.25 グローリア アンサンブル&クワイヤー 第24回演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● 開演は午後2時。チケットは2,000円。当日券を購入。
 曲目は次のとおり。指揮は片岡真理さん。
 ブラームス 運命の歌
 ドボルザーク スターバト・マーテル

● グローリア アンサンブル&クワイヤーの年1回の演奏会を聴くのは,ぼく一個の定例行事になった感がある。これだけ大がかりな装置が必要な曲を取りあげてくれるのは,栃木県ではここしかない。
 次回は3大レクイエムのうちの2つ,モーツァルトとフォーレをやるようだ。しかも,ピアノ伴奏の簡略版ではなく,管弦楽が入るはずだ。呆れるほど野心的ではないか。
 それを2,000円で聴けるとなれば,やはり来年も出かけていくだろう。

● グローリアが取りあげるのは,ミサ曲やオラトリオなど,キリスト教が前面に出る楽曲ばかりだ。
 どうしても,西洋におけるキリスト教の生態を知らないと,ヨーロッパ人が楽しむように,これらの楽曲を楽しむことはできないだろうと考えてしまう。
 別にヨーロッパ人が楽しむように楽しまなくたっていいわけだけどさ。ぼくらはぼくらなりの楽しみ方で楽しめばいいんだけど。

● で,以下に,「スターバト・マーテル」を聴きながら,脳内に浮かんできた妄想を記しておくことにする。
 縁起論,アビダルマ哲学,中観,唯識といった膨大かつ精緻な(瑣末ともいうが)哲学,思想を含む仏教に比べれば,キリスト教神学なんて底が浅くて学ぶ気にもならない,と感じる向きはわりとあるのではないか。

● その底の浅いキリスト教がヨーロッパのみならず,中南米やアフリカにも広まったのは,武力を背景にした布教の結果ではあるけれども,じつにこの底の浅さがあればこそだった。
 それらの地域でも地場の宗教はあったはずだ。そこにキリスト教を移植することができたのは,底が浅いからわかりやすかったうえに,加工しやすいという事情があった。それゆえ,地場宗教との融合もスムーズに進んだのではあるまいか。

● キリスト教を結局は受け入れなかった日本のような国は,むしろ例外だろう。日本がなぜキリスト教を容れなかったといえば,キリスト教にある種の胡散臭さを感じとったからだとしか思えない。当時のイエズス会の牧師はけっこういかがわしかったんだろうな。
 ひょっとすると,日本人の民度が高くて,最初から底の浅さを見て取ったのかもしれない。

● 今回のドボルザーク「スターバト・マーテル」をはじめ,数多くの珠玉のような宗教楽曲を生むことができたのも,キリスト教神学の底が浅かったからだ。
 ほんとに深いものは言語化できない(かもしれない)。ヨーロッパでも宗教音楽においては言語が必須だ。言葉でもって神を讃えるのだ。合唱,独唱がない器楽だけの宗教曲というのは,あるのかもしれないけれども,その存在をぼくは知らない。バッハの多くの曲にその傾向を見て取ることはできるかもしれないけれど。
 である以上,宗教曲で表現できる深さには限度がある。表現というのは厄介なものだ。

● 底が浅いから,演劇化も可能になった。オラトリオにも演劇の要素はある。
 あるいは,演劇化を前提にすると,底を浅くせざるを得ないという事情が逆にあるのかもしれない。
 演劇でもある一点を深く掘り下げることはできると思う。そのことによって,全体を見る視点を揺り動かすという方法があるのかもしれない。どうなんだろ。

● ぼくには欧米人の友人がいるわけではないから,あくまで想像で申しあげるんだけど,彼らにはエゴの追求を躊躇しないという印象がある。個が膨大な富を築いたり,一が他を支配(収奪)することに,障壁がないというか。
 日本に奴隷制があったのかどうか知らないが,あったとしてもヨーロッパの農奴とはかなり違ったものだったのではないか。

● そうした人が,日曜日に教会に行って懺悔すれば,エゴ追求も是とされ,敬虔なクリスチャンと看做されるという仕組みは,究極の御都合主義でもあるだろう。
 すべての宗教は御都合主義の別名であるから,これを言ってしまうと話が終わってしまうのではあるけれど,それにしてもと思う。

● この「スターバト・マーテル」にしても,「私のいのちの尽きる日まで,あなたと共に泣き,十字架のキリストの苦しみを共に味わわせ給え」という。しかし,「じゃぁ,本当に味わわせてやろうか」とは,神は言わないという前提がある。
 つまり,これは本心ではない。こう言えば,救いがあるのだという決まり事にしたがっている。「苦しみを共に味わわせ給え」と言ったあとは,「処女マリアよ,あなたの御力で,最後の審判の日に,私が地獄の火に苛まれ,炎に焼かれることから守り給え」となるのだから,これはもう御都合主義以外の何物でもない。
 欧米の聴衆はこれでカタルシスを覚えて,ニコニコしながら帰途につくのだろう。

● もの心つく前に洗礼を受けさせられた遠藤周作が,その多くの作品において葛藤したのも,キリスト教神学の底の浅さをどう相克しようか,というところだったのではないだろうか。
 その成功例のひとつが『沈黙』だといえる。踏絵のなかのイエスが「踏むがよい。お前のその足の痛みを,私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生まれ,十字架を背負ったのだから」と語りかけるところは圧巻だけれど,これ,サッサと踏んでしまえばそれまでの話だ。それをここまでの作品に仕上げるのは,遠藤周作の力業だ。作家の才能だ。
 最初からキリスト教神学が深ければ,こういう作品は生まれなかったに違いない。

● 以上で,妄想は終わる。
 「スターバト・マーテル」のソリストは,藤崎美苗さん(ソプラノ),布施奈緒子さん(アルト),中嶋克彦さん(テノール),加耒徹さん(バス)の4人。布施さんのアルトがずっしりと響いてきた。
 合唱団は前半と後半で立ち位置を変えてきた。ソプラノ-アルト-テノール-バスから,ソプラノ-テノール-バス-アルトに。どういう理由によるものか,ぼくにはわからなかったけど。

● グローリア アンサンブル&クワイヤーが栃木県にあることの意味って,かなり大きいなと,あらためて思った。文句をつけようと思えば,それはいくつかはつけられるだろう。管弦楽に少し馴れがあったような気がした,とか。
 しかし,今回にせよ,昨年のハイドン「天地創造」にせよ,これだけの大曲を(東京ではなくて)宇都宮で聴くことができるのは,それこそ神の恩寵かと思われる。

2016.09.24 渡辺響子&南部由貴デュオリサイタル

栃木県総合文化センター サブホール

● 「第8回トレビーゾ国際音楽コンクール」室内楽・現代音楽2部門第1位受賞記念,という副題が付く。開演は午後7時。チケット(前売券)は2,000円。
 渡辺さん(ヴァイオリン)は地元宇都宮市の出身。渡辺さん自身の紹介によれば,南部さん(ピアノ)とは高校,大学(ともに桐朋)の後輩,先輩の関係で,留学先のウィーン国立音楽大学でも一緒。留学先で知り合ったらしい。

● これが初のリサイタルになるのだと思うんだけど,サブホールが満員になった。3階のバルコニー席にもお客さんがいた。
 しかし,どうも会場の空気に違和感があった。不自然だ。ありていに申せば,粗野な感じを受けた。

● クラシックの演奏会だからといって,他よりハイソな雰囲気になるのかといえば,たぶんそんなことはない。クラシック音楽なんて,すでに充分に大衆化されている
 が,この空気はどうも。“粗にして野だが,卑ではない”のであれば,それはそれで結構なことではあるのだが。

● おそらく,主催者(“KLANG”なる後援会があるらしい)が人を集めて送りこんできたのだろう。気持ちはわからないでもないんだけれども,どうなのか,これは。
 最初から最後まで楽章間に拍手が発生した。楽章間の拍手に関しては,別にいいじゃないか,それくらい,と思っているんだけど,どうもこの拍手は手拍子までやりかねないような気配があった。

● ま,しかし。粗や野や卑は,ぼくも多分に持っていて,そこはお互いさまと言うべきだ。気を取り直してステージの演奏に集中することにする。
 プログラムは次のとおり。
 ブラームス ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第2番
 伊福部昭 ヴァイオリンとピアノのためのソナタ
 ルトスワフスキ スビト
 シューベルト 幻想曲 ハ長調

● まずはブラームス。水準の高さはすぐにわかった。陶酔できる。
 二人ともリラックスしているふうだ。これまでいくつもの場数を踏んできているのだろうし,ここは二人にとってホームでもあるだろう。
 明日は東京で同じ内容のリサイタル。こちらが本番で,今夜はリハーサル? そんなこともないんだろうけど,たぶん,明日の方が緊張するよね。高校や大学の知り合いが多く来る? もしそうなら聴衆のレベルも明日の方が高いんだろうから。

● 上の4曲のうち,最も印象に残ったのは,伊福部昭のソナタ。第3楽章はめまぐるしい動的変化の連続。決して容易な曲ではない。
 南部さんが留学先の修士論文で取りあげたのが伊福部昭だったそうだ。だからというわけでもないんだろうけれども,自家薬籠中のものにしているというか,「これが自分たちの伊福部なんだけど,どう」という,いい意味での居直りのようなものを感じた。見当違いの感想かもしれないけど。

● ルトスワフスキはCDでも聴いたことがない。今回,初めて聴くもの。
 最後はシューベルトで,ここでは渡辺さんが若きヴィルトゥオーサの凄みを見せた。静かな集中。
 この曲は超絶技巧の連続のようにも思えるんだけど,超絶技巧という言葉は今でも生きているのだろうか。かつては数えるほどの人しか演奏できなかった難曲も,今では音大の学生ならだいたいこなすんじゃないかと思える。
 そうはいってもこなすレベルが違うだろう。その違うレベルでの演奏。

● アンコールは,「赤とんぼ」のあと,モンティ「チャルダッシュ」。これも客席にはお得感のある演奏だった。
 栃木県出身の本格派が誕生した。渡辺さん,スター性も充分と思える。

2016年9月20日火曜日

2016.09.18 那須フィルハーモニー管弦楽団 名曲コンサート

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 台風16号の影響か,かなりの降りだ。この雨の中を電車に乗って大田原まで出かけていくのは,ちょっと億劫だな。
 最大の問題は,自宅から最寄駅までの1キロ弱の道のりにある。道路が湖状態(?)になっている箇所が3つはあるはずなのだ。

● あえて素足にサンダルで出かけることにした。靴下なんかはいてたんでは,ビショビショに濡れて気持ち悪くてしょうがない。
 一番いいのは長靴なんだけどね。さすがに長靴で行く気にはならないのでね。
 が,西那須野駅に着く頃には,ほぼやんでいた。ふぅぅむ。

9月14日の下野新聞
● 開演は午後2時。チケットは500円。那須フィルの定期演奏会は1,000円なのに,名曲コンサートは500円。ずっとそうなんだけどね。
 指揮は田中祐子さん。曲目は次のとおり。
 チャイコフスキー 「白鳥の湖」より“情景” “4羽の白鳥の踊り” “王子とオデットのパ・ダクシオン” 「くるみ割り人形」より“行進曲” “トレパーク” “花のワルツ”
 ショスタコーヴィチ 交響曲第5番
 アンコールは「眠れる森の美女」より“ワルツ”。

● 「白鳥の湖」の“情景”のあの有名すぎる旋律は,白鳥にされてしまったオデットが,私はここよ,と王子に告げる音的アイコンだ。
 白鳥なんだから言葉を持たない。だから王子には伝わらない。白鳥にされたオデットにもそれはわかっている。わかったうえで,私はここよ,ここにいるのよ,と切なく告げる。
 したがって,曲の基調もまた切なさでなければならない。楽譜のとおりに演奏すれば自ずとそうなるんだろうけれども,胸をキュッと締めつけるような切ない叙情を湛えた演奏であってもらいたい。

● 前半はクラシック音楽のポピュラーソング。後半は一転して,ショスタコーヴィチの5番という,何とも得体の知れない難曲を持ってきた。
 で,ひじょうに無礼なことを申しあげるんだけれども,前半の「白鳥の湖」と「くるみ割り人形」を聴いて,これでどうやってショスタコーヴィチの5番を演奏するのかと思った。いや,本当に無礼極まる言い方なんだけど。
 そのように感じさせるのは管楽器。弦の安定感はまずもって不安をさし挟む余地はなかったので。

● ところが。このショスタコーヴィチが素晴らしかった。重いところはずっしりと重く,弾むところは軽やかに弾んでいた。重から軽,軽から重への転換もいたってスムーズだった。
 わからない。どうしてこういうことが起こるのか。

● 終演後,田中祐子マエストロの目が潤んでいたようにも見受けられた。田中さんが発する念力が奏者のひとりひとりに届いたってことか。
 田中さんの渾身の指揮は印象的だったけれども,受け手がボケたままじゃ,届くものも届かないわけでね。

● 田中さんは感情家,多情家,感激屋のようだ。どんな世界でも,リーダーとして精彩を放つ人やひと角の人物には,感激屋が多い。
 ビジネスの世界でもそうだ。冷静沈着は大切な属性なのだろうけれども,それしかないというのでは,大事を為す人物にはなり得ないように思う。
 ぼくのような凡庸な人間があまり多くを語ってはいけないところだけれども,田中さんには人を引っぱっていくのに必要な,大切な要素が備わっているようだ。

● 以下,どうでもいいことを述べる。
 プログラム冊子の曲目解説。おそらくどこかから引っぱってきたものだと思うんだけど,「ロシア帝政を象徴したとされるこの曲の大半で表現される苦しみと悲しみは,実はスターリンの独裁体制とその粛清による民衆の苦悩の表現なのである」というのは,現時点では過剰にわかりやすい言い方で(ステレオタイプといっていいだろう),スッと入ってくる。
 しかし,本当にそうなのか。ショスタコーヴィチが後年,そのように語っているんだろうか。仮にそう語っているのだとしても,本当にそうなんだろうか。

● さらに,「私は信じない」のところは,だいぶ昔に流行った,万葉集を古朝鮮語で読む的なバカバカしさを思いださせる。
 いや,実際はわからない。ここに書かれているとおりのことをショスタコーヴィチは仕込んだのかもしれない。わりとしたたかな男だったようだし。
 ともかく,こうした厄介さがショスタコーヴィチにはありますよね。

● ソ連だのスターリンだの社会主義だの生命の危険だのっていう,ショスタコーヴィチを取りまいていた諸々の事情を一切捨象してしまって,ただ彼の音楽を聴く。それで自分がどう反応するか確かめる。そういう聴き方をするしかないと,今のところは,思っている。