2013年12月2日月曜日

2013.12.01 楽器たちの饗宴 Vol.2 一流アーティストによるリレーレクチャーコンサート

栃木県総合文化センター メインホール

● この日は川崎で,音楽大学オーケストラ・フェスティバルの3回目の演奏会があった。行けば高揚した気分になれることはわかっている。チケットも購入済みだ。
 けれど,こちらを選択。曽根麻矢子さん(チェンバロ),古川展生さん(チェロ),中嶋彰子さん(ソプラノ)が宇都宮に来るんですよ。何というか,とても豪華版。
 中嶋さんのソプラノを生で聴ける機会なんて,滅多にあるものじゃない。YouTubeにアップされている「乾杯の歌」(NHKが放送したもの)に登場する彼女を見て,一発で魅せられてしまっててね。これは聴きにいくでしょ,行かなきゃダメでしょ,的な。

● このレクチャーコンサート,1回目は2年前だったか。しかも無料だった。何と太っ腹なと思ったけど,今回は有料になった(といっても1,000円)。これで良いと思う。
 ともかく,これで上記3人の演奏が聴けるんですよ,と。持ち時間は,それぞれ1時間。進行役は今回も朝岡聡さん。退屈することは絶対にない。
 開演は午後1時半。2階席は使わず,1階席のみを使用。それでも両翼席を中心にけっこう空席あり。

● まずは曽根麻矢子さん。お嬢さんって雰囲気を湛えている。おきゃんな人っぽい。かといって,ちょっとそこのお嬢さん,と呼びかけていいわけじゃない。
 「生で聴ける機会なんて,滅多にあるものじゃない」ってところでは,彼女のチェンバロもそうだね。栃木に住んでるんだからね,こっちは。
 いきおい,CDでってことになるんだけど,これまで14枚のCDをリリースしているそうだ。その中でぼくの手元にあるのは,バッハの「イタリア協奏曲,フランス風序曲」「イギリス組曲」「トッカータ」「フランス組曲」と,スカルラッティのファンダンゴやソナタを収めた「ラティーナ」の5枚。

● ただ,熱心に聴いてるかというと,そうでもなくてね。そうでもなくてっていうか,ぜんぜんそうじゃないわけで。だいたい,「ゴルトベルク変奏曲」は持ってないんだからね。
 ゴルトベルクはもっぱら横山幸雄さんのピアノで聴いてるんだけど,チェンバロも聴かないとゴルトベルクを聴いたことにはならないかもね。
 ただ,こうして本人の生演奏を聴く機会があると,そのあたりを修正できるきっかけになるわけでね。修正できないことも多々あるんだけどさ。

● チェンバロの音色,なんて表現すればいいんでしょうかねぇ。朝岡さんは雅びといっておられたけれど。一番近い楽器を探すとすると,ハープになるんでしょうか。いや,だいぶ違うな。むしろ邦楽器の箏か。ひっきょう,チェンバロはチェンバロですよね。
 でね,チェンバロをずっと聴いていると眠くなってくる。音楽を聴きながら居眠りするってのは相当な贅沢だし,何といっても気持ちいいし,有効な音楽の使い方だと思ってるんですけどね。生演奏のときにそれをやっちゃ失礼なんだろうけど,CDを聴きながらだったらぜんぜんOKですよね。

● ステージには2台のチェンバロがあった。小さい方がジャーマンで,大きいのがフレンチ。ドイツの曲だからジャーマンでという厳密な縛りはないそうだ。
 そりゃそうだ。厳密って不自由だもんね。意外性を殺してしまうだろうし。なんか,発展性がないって感じがするよね。

● 曽根さん,楽屋にピアノが置いてあっても触ることはないそうだ。まったく別の楽器だからというわけなんだけど,イチローが他人のバットは持たないと語っていたのを思いだした。感覚が狂うから,と。
 数年前,NHKの「プロフェッショナル」で,イチローがそういうことを言ってたんですけどね。

● 次は,古川展生さん。ピアノ伴奏は坂野伊都子さん。
 ヴァイオリンもそうだけれども,チェロも18世紀から形がまったく変わっていない。言うなら,最初から完成形。大きなコンサートホールなどなかった時代の形態が変わらず今に至っているのは,不思議というか途方もないというか。古川さんと朝岡さんがそんな話をしていて,こちらはなるほどな,と。魂柱の話も面白かったね。
 弓も1千万円くらいのものがあるらしい。古川さんが使っているのもその種のもの。とすると,チェロの本体は億か。さすがに自前ってわけにはいかないから,貸与を受けることになる。

● オーケストラだったらとっかかりがいくつもある。金管はちょっとしょぼいけどクラリネットは巧いなぁとか,まぁいろいろと。指揮者を見てたっていい。演奏するのも交響曲がメインだから,曲じたいが壮大だ。
 けれども,単楽器のソロとなると,そういうわけにいかない。語れる素材が少なくなる。ハッタリが効かない。聴き手の鑑賞能力が露わにされる。上級者向けだ。
 ぼくにはちょっと厳しいかも。と,ずっと思っているから,聴き方に進歩がないんでしょうね。

● ベートーヴェンの「“マカベウスのユダ”の主題による12の変奏曲」が面白かった。面白かったというと上から目線的な言い方になってしまうんだけど,ベートーヴェンってこういう曲も作ってたんですねぇ,って感じで面白かった。
 しめに持ってきたのは,ピアソラの「リベルタンゴ」。古川さんのチェロはもちろんのこととして,坂野さんのピアノも聴きごたえがあった。

● 「リベルタンゴ」ってクラシックジャズの風情もあるし,日本の演歌に通じるメンタリティーもあるように感じててね。リズミカルなんだけど,人生って辛いよなぁ,やんなっちゃうよ,っていう感が濃厚にあるじゃないですか。
 そんなことないですか。ま,ぼくはそういうふうに聴いちゃってるんですけどね。

● 中嶋彰子さん。存在じたいに華やかさがあって,威風あたりを払うの趣。
 こういうのって持って生まれたものだとは思わないんだけど,かといって,こういうふうにすれば持てますよ,っていう方程式はない。たいていの人は持てないままで一生を終わる。
 なんで持てないかというと,たぶん,持つ必要に迫られないからだ。必要がないものを持っていたってしょうがない。では,必要に迫られれば持てるのかというと,持てる人もいれば持てない人もいる。このあたりが問題といえば問題。

● お姫さま気質とか王子さま気質というのがあるかもしれない。彼女のたたずまいは,そういうことを連想させるんですよ。
 たとえば,ぼくには王子さまは務まらないと思うんです。みてくれとかの問題は度外視してですよ。3日ももたずに放りだしたくなるに違いない。
 お姫さまや王子さまって,生活の細かいことよりも,押しだしが良くないといけないし,ストレスに強くなきゃいけないでしょう。ほとんど社交に生きているんだろうから,四六時中誰かと一緒にいることになる。
 細かいことに拘泥してたんじゃ,身がもたない。こんなことを言ったら嫌われるかも,なんてことを気にしていては,お姫さまは務まらないような気がする。いろいろ考えるのはいいとして,芯は楽天家でないとね。
 で,中嶋さんは苦労してそれを身につけたのかもしれないね。根拠はないんだけど,そんなふうに思ってみました。

● 中嶋さんが日本語を歌うことの難しさを語った。子音に必ず母音がくっついていることや,「ん」は10通りの発音の仕方があって,なかなか大変なんですよ,と。
 実際,オペラだと日本語公演であっても字幕がほしくなる。日常文脈から切り離して音声だけを浮かびあがらせようとするわけだから,そこには日常語にはない配慮が必要になるんでしょうね。演劇なんかも同じでしょうね。

● 楽器を介さないから直接性が強烈っていうか,これは努力してどうにかなるものじゃないなと,すぐにわからせてくれる。楽器の演奏だって同じなんだけど,器機の操作だからわずかに幻想を持てる余地があるわけね。
 ウサイン・ボルトが100メートルを9秒58で駆け抜けるのをテレビで見たときと同じ。自分にもあれができると思うやつは,まさかいないだろう。こちらは感嘆しつつ,それを楽しめばいい。理屈はしごく単純だ。

● ピアノ伴奏は松本和将さん。その松本さんがリストの「リゴレット・パラフレーズ」を演奏。ぜんぜん弾けない人間には,いわゆるひとつの奇跡を見るような思いですな。
 アクロバティックな指の動き。そこから立ちあがってくる音の粒立ちとふくよかさ。ひたすら堪能。

● というわけで,終演は午後5時。これで1,000円だからね。
 これ,しばらくシリーズものとして続けるんだろうか。そうだとすると嬉しいね。

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