2017年7月12日水曜日

2017.07.09 東京大学歌劇団第47回公演 ビゼー「カルメン」

三鷹市公会堂 光のホール

● 東京大学歌劇団の公演を見るのは,これが5回目になる。前回見たのは,2014年の12月。だいぶ間が空いてしまったが,その理由のひとつは,会場が三鷹市公会堂であること。
 つまり,遠いんですよね,ここ。栃木から行くんだから,どこだって遠いじゃないか,って?
 そうではない。三鷹駅までは近いんですよ。近いっていうか,電車が運んでくれるから,こちらは座っていればすむ。居眠りしててもいいし,雑誌を読んでてもいいし,音楽を聴いててもいい。

● 問題は三鷹駅から三鷹市公会堂までなんだよね。この距離がけっこうある。
 駅からはバスもある。ただ,乗合バスっていうのは,地元民しか乗りこなせない。ヨソ者としてはどのバスに乗ったらいいのかわからない。
 とはいっても,そんなのはネットをググればわかるんですよね。そのわずかな手間が面倒くさい。その面倒くささを避けてしまう。

● 避けた結果どうなるかといえば,駅から公会堂まで歩くことになる。距離にすれば2㎞くらいか。宇都宮でいえば,JR駅から東武駅くらい? もうちょっとあるかな。
 歩くのもまた面倒だ。それが間があいてしまった理由のひとつかな,と。

● が,いつまでもそうしてはいられない。頭のてっぺんに穴が空きそうな太陽光を受けながら,その2㎞を歩いて,三鷹市公会堂へ。
 大成高校のグラウンドでは野球部が練習をしていた。高校野球の季節だな。この炎天下でこんなことができるんだから,高校生ってすごいよな。ぼくらが同じことをやったら(できないけど),自殺行為になる。

● さて,「カルメン」だ。この歌劇の脚本で解せないことが2つある。
 ひとつは,ドン・ホセはなぜカルメンにここまで入れあげてしまったのか。しかも,入れあげた状態が長く続く。いっこうに冷める気配がない。
 カルメンは情熱的な美人で,いうならマドンナという設定になっているんだけれども,それにしたって。どうして,ここまで。
 もうひとつは,最後のカルメンの行動。ホセに殺されるとわかっていながら,友人の忠告をふりきって,ホセに会う。会って,さぁ殺せと言わんばかりにホセを挑発する。そして,殺される。

● この2つがどうもわからない。この2つは,でも,歌劇「カルメン」の根幹をなすところであって,そこに疑問を持ってしまったのでは,「カルメン」がどこかに飛んでいってしまう。
 しかし,わからないものはわからない。

● メリメの原作には,そういうわからなさはないんですよね。
 歌劇でのホセは内向的で母親思いの真面目な青年だけれども,原作でのホセは激昂しやすい男。カルメンをめぐって軍の上官と言い争いになると,上官を刺殺して,ダンカイロ盗賊団に身を寄せる。この盗賊団は殺人も躊躇なく行う極悪非道な犯罪集団だ(歌劇では愛嬌のある密輸団として描かれているのだが)
 ホセは,カルメンがダンカイロの情婦であることを知ると,ダンカイロをも殺している。エスカミーリョが闘牛で瀕死の重傷を負ったことを知って,カルメンとヨリを戻そうと動く。
 そういうことなら,なるほどね,ですむ。わからなさは残らない。

● オペラの脚本は,原作をかなりコミカルに改変している。それは興業として成功させる必要があったからだろうけれども,ぼくらに与えられるのは改変された歌劇「カルメン」であって,それを自分に引き寄せて,自分をスッキリさせなければならないという作業が発生してしまった。
 原作と歌劇の最大の違いは,歌劇ではミカエラという重要なキャラクターが設定されたこと。これで劇的な面白さは増していると思う。増しているんだけど,ホセに対するわからなさも増すことになる。こんなに可愛い許嫁がいるのに,おまえは何やってんだよ,っていう。

● 田舎対都市というとらえ方もできるかもしれない。田舎の保守的な道徳が身体に染みこんだホセに対して,都会の奔放な風を思うさま受けながら生きているカルメン。
 故郷という帰れる場所を持つホセに対して,寄る辺なきカルメン。故郷というシェルターを持つホセに対して,ひとり風に向かって立ち続けなければならないカルメン。
 その違いは,生き方の差にならざるを得ない。切羽詰まった度合い,生に対する真剣さ,そういうものがホセとカルメンではだいぶ違う。カルメンは道徳とかルールとか,そんなものをかまっている余裕はない。
 田舎育ちのホセが都会育ちのカルメンに惹かれてしまった。田舎と都市が戦って,都市が勝利した。

● オペラを見る楽しみのひとつに,登場人物と自分を比較して,俺はあそこまでバカじゃねえぞ,と安心するというか溜飲をさげるというか,そんなものがあるんじゃないかと思う。
 「あそこまでバカ」の筆頭は,この歌劇「カルメン」に登場するホセでしょう。だから,そこで溜飲をさげて終わりにしてもいいんだけどねぇ。

● 次に,最後のカルメンの行動だ。どうしてわざわざ殺されに行くようなことをしたのか。
 女の矜恃を示すため? そんなものを示す必要は寸毫もない。
 カード占いで,何度やっても「死」しか出なかったので,もう生きていても仕方がないと思った? そんなバカな。
 ミカエラの説得に応じて,母親を見舞うために密輸団を離脱したホセを見て,自分の孤独感を深めた? 自由がなにより大事というのは自分を納得させるための方便だったとしても,その流儀はかなりのところまでカルメンの身になっていたはずだ。その自由人がその程度で孤独を深めることは,おそらくないだろう。
 ミカエラに嫉妬した? それもないよなぁ。あったとしても,だから自分がホセに殺されてもいいってことにはならないよ。
 寄る辺ない人生に疲れてしまった? それもねぇ。あのカルメンが,と思うよねぇ。

● 普通は,ストーカーと化したホセに対して,「しつけーんだよ,このクソ野郎」と引導を渡しに行ったと考えるべきところなんだろうけど,それも命をかけてやるほどのものではないでしょ。
 となると,考えられる理由はひとつしか残らない。カルメンは自分でも気づかないところで,じつはホセを愛していた。ホセになら殺されてもいいと思っていた。
 しかしねぇ。カルメンはホセに恋情を寄せたことは,たぶん一度もないんだよねぇ。ホセに利用価値があるときだけ利用した。気持ちを向けたことはない。わからないまま残るねぇ,これは。

● 女心の複雑さ,不可解さに還元してはいけない。女心はいたって単純にできている(と思える)。快不快の原則と自分中心主義で動いている(したがって,しっかりと地に足が着いている)。ドライといってもいい。
 問題はこの脚本を書いているのが(たぶん)男であることで,リアルの女と男の目に映った女はだいぶ違うでしょ。そのあたりを踏まえて解釈していかないとね。つまり,脚本家が女を描き損ねている可能性もあるってことね。

● 要するに謎が多い脚本だ。そこに説得力を持たせるにはどう演出すればいいかと,演出者はいろいろ悩むのだろう。オペラ解釈とは,つまるところ,そういうことかもしれない。
 オペラなんだから,大衆受けしなきゃしょうがない。それを前提にすると,この脚本は大成功でもあるわけなんだが。

● この歌劇団の公演を初めて観たのは2013年の1月。そのときも「カルメン」だった。が,今回の「カルメン」は前回のそれとはまったく違ったものになっていた。
 何が違うかといえば,まず演じ手の技量が違う。東大という冠が付いていても,東大生はむしろ少ないのじゃなかろうか。ひょっとして音大の声楽科の学生さんが入っていたりするんだろうか。
 カルメン,ミカエラ,ホセ。いずれも呆れるほどに上手い。特にミカエラは,歌が力強くて,その力強さが辺りを払うところがあった。払いすぎてしまって,ミカエラのホセを思う乙女的な純情さ,村娘の素朴さ,そういったものまで払われてしまった憾みが残るほどだった。

● 舞台のセットと衣装も本格的。前回は,いかにもお金がない学生劇団が手作りで設えた舞台っぽくて,それはそれで好感の持てるものだった。
 今回は,資金提供者がいたんだろうかと思うような,立派なステージでしたね。

● 演出も違っていた。カード占いをするところで,カルメンに「二人とも死ぬ」と言わせている(字幕にそう出たわけなのだが)。“二人とも”という字幕には初めてお目にかかった。“二人”とはカルメンとホセなのだろう。
 カルメンを刺したところで劇は終わるんだけど,このあとホセは,カルメンを刺したそのナイフを自分の首に突き刺したはずだ。
 先に「自分でも気づかないところで,じつはホセを愛していた」と言ったのも,この字幕に連想を刺激されたものだ。

● 初めてカルメンに出逢ったときのホセと,初めてエスカミーリョに出逢ったときのカルメンの様子がパラレルだ。気になるっちゃ気になるんだけど,努めて関心なさそうにしている,という様子。
 これは今回の演出の独自性というわけでもないように思うけれども,そこを強調していたように思われる。穿ち過ぎだろうか。

● 結論は,ここまで作り込めるのはすごい,ということ。演出はもちろんのこと,管弦楽も含めて,大道具や衣装からプログラム冊子に至るまで,相当な水準。
 何から何まで自前。アウトソーシングはしてないらしい。すべての工程が美味しいんだろうから,アウトソーシングしたんじゃもったいない。

● 会場に入りきれず,ロビーでモニター鑑賞を強いられたお客さんも,かなりの数,いたようだ。これはあまりよろしくないから,次回は会場を変えてはどうかね。
 「カルメン」だからこれだけのお客さんが入った? そうかもしれないけどね。

2017年7月8日土曜日

2017.07.08 フラットフィルハーモニーオーケストラ 第5回演奏会

紀尾井ホール

● 四谷駅で降りるのは,今回が生涯で三度目だと思う。
 御茶ノ水は学生街であり,書店街でもあるので,若い頃にはしばしば訪れていた。新宿はあまり行きたいところではないけれども,それでも用事があったり私鉄への乗り換えがあったりで,降りざるを得ない駅だ。
 その間にある四谷にはまずもって用事がない。上智大学があるところという以外のイメージがない。四谷は新宿区にある。が,四谷駅は千代田区になるんでしょ。新宿,港,渋谷,千代田の区堺に位置している。面白いっちゃ面白いところなんだけど,上智大学以外に何かあるんだろうか。

● 逆に上智大学のイメージが強すぎるのかも。松原惇子さんのいうルイヴィトン大学(ブランド大学)の代表だ。偏差値も高い。間違ってもぼくが入れるところじゃない。
 かつては一億総中流と言われていた。日本の金持ちなんて知れてるんだし,庶民といっても日本の庶民はそこそこお金を持っている。上智とか青山とか聖心女子大とか慶応とか,坊ちゃん嬢ちゃんが集まる大学といっても,その他大勢とさして違うところはあるまいと,ぼくは思っていた。

● ところが,今に限らず,昔からそうではなかったらしいんだな。間違って入ってしまった庶民はけっこう疎外感を味わうらしい。本当かねとじつは今でも思ってるんだけど,どうもそうらしいのだ。
 しかし,だ。お金持ちが集まると,彼ら彼女らに独特の話題があり,雰囲気を醸すのだとしても,それが金持ち倶楽部のスノッブと言われるものかどうかにかかわらず,どう転んでも大したものではあるまいと思っている。
 と,わざわざ書くところがすでに,庶民の劣等感の裏返しかもしれないんだけどね。

● とにかく,その上智大学を見ながら歩くこと5分,紀尾井ホールに着いた。このホールに来るのは,今回が二度目。前回も暑い時期だった。
 開演は午後2時。チケットは2,000円。当日券を購入。

● 紀尾井ホール。華美でも絢爛でもないけれども,とんでもないお金をかけたホールだというのは,ひと目でわかる。椅子にしろ柱にしろ壁にしろ天井にしろ天井からさがっているシャンデリアにしろ,高級な部材でできている。
 世が世であれば,ぼくなんぞが出入りしてはいけないところであろうな。が,ぼくだけではない。お客さんの大半は,世が世であれば・・・・・・というのに該当しそうだ(暴言多謝)。日本ではクラシック音楽ファンの大衆化は,ほぼ完成の域に達しているのではあるまいか。

● 外は暴力的と言いたくなるほどの猛暑。が,ひとたびホールに入れば,冷房が完璧に作用していて,むしろ肌寒いほどだ。
 それ自体が,ぼくの年齢層の人間には,あっていいのかと思えるほどの贅沢に感じる。いや,“ぼくの年齢層の人間には”と言ってしまっては言い過ぎであろうな。“ぼくには”と言い換えておこう。

● フラットフィルハーモニーオーケストラの演奏を聴くのは今回が初めて。紀尾井ホールでやるくらいなんだから,腕には覚えがあるとみた。プログラムはオール・ブラームス。
 大学祝典序曲,ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲,交響曲第3番。指揮は平真実さん。ブラームスの4つの交響曲のうち,3番は比較的演奏される機会が少ないのではないかと思う。今日はその3番を聴くことができる。

● 女子奏者はそれぞれのカラフルなドレスで登場。こうあるべきだと思う。黒一色も悪くはないんだけど,黒一色の上品さと多くの色が織りなす華やぎとを比べれば,ぼくとしては後者に軍配をあげたい。
 女性はそれぞれが花。花は花らしくあるのがいい。どの花もみな黒いというのは,自然界にはありえないことだ。

● 「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」を聴ける機会はそんなにないだろう。ヴァイオリンはこの楽団のコンミスの田遠彩子さん。チェロはやはり首席奏者の塚本敦史さん。
 長大な曲で,これがなぜ交響曲にならなかったのか不思議。っていうか,ブラームスは交響曲として構想していたんですね。大人の事情ってやつで,協奏曲になった。

● が,あろうことか,ここでぼくは断続的に意識を失ってしまった。猛暑に晒されたあとの涼しさがいけなかったのか。昼食は食べていなかったので,食後の午睡ではないんだけどね。
 もちろん,戦いはしたんですよ。戦ったんだけれども,泣く子と睡魔には勝てないわけで。申しわけのないことだった。
 っていうか,これでチケット代の半分は捨てたも同然だな。

● 交響曲第3番。なぜこの曲だけ,演奏される機会が少ないのか。ひょっとしたら,ブラームスの4つの交響曲の中でも,最も奏者に運動量を要求するからなんだろうか。
 そんなことはないね。第3番は4つの中で最も演奏時間が短い曲なんだしね。

● 1楽章の強烈さ。激情というか情熱というか。大波がうねっているような。2楽章の雅。3楽章の憂愁。そして4楽章の躍動。そして,静かな終局。
 どう聴くかは聴き手の勝手。自分で自由にシーンを妄想することを保証してくれる。その自由を支えてくれるのがいい曲,という単純な見方をぼくはしているんだけど。

● この曲をCDで聴くときには,もっぱらカラヤンで聴いている。カラヤンって,今は非難を一身に引き受ける存在になった感があるけれど。
 が,いくらカラヤンでもベルリン・フィルでも,生演奏には敵わない。言うまでもないことだ。
 生の魅力って何なんだろうか。奏者の一挙手一投足が見えること。固唾をのむ大勢の聴衆の中で聴けること。部屋では聴けない音量を味わえること。それだけでは尽くせない何かがあるような気がするね。
 なのに,生演奏を聴きながら居眠りをしてしまうバカもいるんだな。

● 楽団紹介に「演奏者も団員もふらっと楽しめる演奏会を目指しています」とあった。それでフラットフィルという名前にしたのかね。
 ま,でも,団員が演奏会を楽しむためには,楽しくない練習を重ねる必要があるんでしょうね。

2017年6月27日火曜日

2017.06.25 諏訪内晶子&ボリス・ベレゾフスキー

栃木県総合文化センター メインホール

● 開演は午後2時。チケットは6,000円。だいぶ前に買っておいた。一律で6,000円なので,どうせならいい席で聴きたいな,と。
 1階左翼席の前から2列目の一番右。総合文化センターだと左翼席が自分の好みだ。ただし,この席だと演奏中の諏訪内さんの表情は窺うことが難しかった。その代わり,ベレゾフスキー氏の指の動きはよく見える。

● 自分のようなヘッポコ聴き手が彼女の生演奏を聴いていいんだろうか。そんな資格があるんだろうか。それは思いましたよね。
 ぼくの耳だと,音大を卒業したヴァイオリン弾きのレベル以上は区別がつかない。同じに聞こえる。目隠しをされて,卒業したばかりのヴァイオリン弾きと諏訪内さんのヴァイオリンを聴かされたら,おそらくどっちがどっちだかわからない。
 でも,お金を払ってチケットを買ってるんだからな。オレは客だぞ,と。

● 曲目は次のとおり。
 ベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」
 ヤナーチェク ヴァイオリン・ソナタ
 プロコフィエフ 5つのメロディ
 R.シュトラウス ヴァイオリン・ソナタ
 (アンコール)
 マスネ タイスの瞑想曲
 ウォーロック 「カプリオール組曲」より“Basse-dance”
 クライスラー シンコペーション
 ホイベルガー 「オペラ舞踏会」より“Midnight Bells”

● 諏訪内さんの所作は優雅で柔らかい。天女の舞もかくやと思うほど。所作はもちろん演奏の本質ではないと思うんだけど,ステージで観客に見せる(観客に見られる)わけだから,見せる要素はたくさんあるに越したことはないと,単純にぼくは思う。
 ただし,優雅や柔らかさがないとダメかといえば,そんなことはないのだろう。奏者それぞれに所作があって,それが絵になっていればいい。実力者の所作は,それがどんなものであれ,絵になっているものだというのも,ぼくの経験則ではある。

● 演奏はといえば,これが世界水準か,と。神々しいほどでしたね。客席で息をするのも憚られるような感じで,じっと目と耳をそばだてていた(つもり)。
 ということはつまり,聴き手としてのぼくが,奏者の諏訪内さんに圧倒されていたというわけですね。当然,そうなるわけだけど。
 この世界にも評論家という職業の人がいて(素人評論家もいる,にわか評論家も),中には彼女に否定的な見方を披瀝する人がいることも知ってはいる。伸び悩んでいるとかね。
 が,ぼく程度の聴き手にはあまり関係のないことで,そこはヘボな聴き手の気楽さだ。

● ベートーヴェンのスプリング・ソナタ。7番と9番は諏訪内さんのCDで何度も聴いているけれども,5番も聴けるとは幸せだ。
 たとえばベートーヴェンの全9曲を特定の奏者の演奏で聴きたいという嗜好はあまり持っていないつもりだけれど,もし諏訪内さんのCDが出れば,これは買うでしょうね。

● シュトラウスのソナタは,むしろピアノに見せ場が多い曲のようだ。ベレゾフスキー氏が躍動。彼も1990年のチャイコフスキー・コンクールの覇者で,諏訪内さんとはコンクール同期らしい。
 どうも諏訪内さんばかりに目が行くけれども,彼のピアノもまた滅多に聴けない貴重なものだ。譜めくりの若い女性も緊張したろうなと,余計なことを思った。

● 世界水準の奏者はエンタテイナーとしての振るまいもできるのが常で,彼女も例外ではない。上手いというより,身についている。聴衆に対する捌きも鮮やか。
 自分がまさか諏訪内さんの生演奏に接することができるとは思っていなかったので,まだちょっとフワフワしている。

● アンコールはよく知られている曲とかなりマイナーな曲を交互に4曲。“Basse-dance”と“Midnight Bells”はCDでも聴いたことがない。
 4つもやってくれると,客席の満足度は高くなる。これも演出なんだろうかなぁ。そうなんでしょうね。
 この4曲を続けて聴くと,ヴァイオリンは歌う楽器なのだということが,理屈抜きにわかる。

● 最後にこのコンサートには無関係な憎まれ口をひとつ。
 彼女のビッグネームに引かれて来たお客さんもかなりいたでしょう(ぼくもそうなんですが)。そうなると,客席の水準は下がることになる。
 ここをさらに一般化して言うと,着飾ったお客さんが多い演奏会ほど,聴衆のレベルは落ちる。これが過ぎると,少々困ったことが起きる。今回,それはなかったけどね。

● でね,サントリーホールで催行されるベルリン・フィルとかウィーン・フィルの演奏会にやってくるお客さんというのは,お金持ちの困った君や困ったさんが多いんじゃないかなぁと思ってね。
 そんなこともないのかね。ぼくがそれらの演奏会に行くことはまずあり得ないと思うんで,いろいろ妄想するんだけどね。

2017年6月26日月曜日

2017.06.24 宇都宮大学管弦楽団 第83回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 開演は午後6時。チケットは800円。といっても,招待状で入場したので,要するに無料になった。
 曲目は次のとおり。指揮は北原幸男さん。
 ベルリオーズ ラコッツィ行進曲
 チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲 二長調
 ベートーヴェン 交響曲第5番 ハ短調

● 栃木県内にある市民オケの人材供給源としても,宇都宮大学管弦楽団が大きな役割を果たしているのではなかろうか。
 そういう意味では栃木県に存在するオーケストラのセンターに位置するのが,この宇大オケといっていいかもしれない。

● 今回の演奏で最も印象に残ったのがチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲だ。その功績の過半はソリストの澤亜樹さんに帰せられる。
 次々に繰りだされる澤マジック。ケレンミがないというか思い切りがいいというか。大変なものだと感じ入った。

● 宇大オケも懸命の応接で,曲をまとめていった。幾重にも巡らされた糸がすべてピィィンと張っているような,見事な演奏。
 チャイコフスキーのこの曲は,ソリストの見せ場が多い。それゆえ,澤マジックが目立ちもするわけだけれども,そうであってもなお,協奏曲のできばえを最終的に決定するのは管弦楽だと思う。ピアノ協奏曲はピアノ曲ではなくて管弦楽曲であるのだし,ヴァイオリン協奏曲もまた同じだからだ。

● この曲のCDは2枚持っている。五嶋みどりさんと諏訪内晶子さんのもの。が,こうして澤亜樹+宇都宮大学管弦楽団のライヴを聴いていると,CDなんて問題にもならないと思わないわけにはいかない。
 ただ,急いで付け加えておくけれども,ぼくは再生装置をウォークマンしか持っていない。せめてミニコンポがあれば「問題にもならない」とまでは思わなかったかもしれないね。

● 第1楽章が終わったところで,会場から拍手が響いた。一部の人がオズオズと手を叩いたというふうではなくて,満場の拍手だった。
 そうしたい気持ちはぼくにもよくわかった。ので,3秒遅れて,ぼくも拍手に参加した。

● 新進気鋭の実力者と学生オーケストラという組合せがよかったか。“功成り名を遂げた大御所+プロオケ”の演奏が常にアマチュアに勝ると思ったら,大間違いだ。
 その演奏からぼくらが持って帰れるものは,技術のみによっては決まらない。うまく言えないんだけれども,そこに込めた思いであるとか,ピュアな気持ちであるとか,難曲に向かうときの心ばえや緊張感であるとか,そういうものが結果において演奏の質を高めることがあるように思う。

● ベートーヴェンの5番は今月4日に鹿沼ジュニアフィルの演奏を聴いたばかり。中高生の演奏とは思えないほどに完成度が高かったと思う。それがまだ耳に残っている。耳に残っているということは,おそらく美化された状態に変わっている。
 ので,それが今回の演奏を聴く妨げになるかもしれない。そこを少し怖れていた。

● しかし,まぁ,杞憂でしたね,そんなのはね。目の前の演奏が始まってしまえば,この世に存在するのはその一曲だけになるんでした。
 鹿沼ジュニアの演奏は第4楽章がかすかに弱かったかと思えた。今回の演奏はその第4楽章がこちらのイメージにぴったりの強さで,そこが好印象。

● かように聴く方は勝手な聴き方をする。聴き方に作法があるわけではあるまいから,そういう勝手も許される(と思う)。っていうか,そういう勝手を包含できるのがいい曲ということなんでしょ。
 第1楽章こそ管にわずかな乱れが見られたけれども,それ以降は闊達自在と形容したくなる演奏。
 それにしても。この学生オケからこれだけの演奏を引きだしたのは,指揮者の北原さんの仕業ということになる。宇大オケと北原さんの相性がいいんだろうか。

● アンコールはエルガー「威風堂々」。
 これねぇ,困ることがひとつだけあるんだよね。来て来て,あたしん家,っていう言葉が浮かんで来ちゃうってことね。アニメの主題歌にこの曲の一部が使われたゆえなんだけど,こういうのって時々,困った事態を招くことがあるねぇ。

● 改装なった宇都宮市文化会館。ここで聴くのはこれが2回目になる。前回は5月に作新学院吹奏楽部の演奏を聴いた。そのときは吹奏楽だったためか,改装の前後で何が変わったかのかあまりピンと来なかったんだけど,音響がかなり良くなっていたんですね。
 今回の演奏を素晴らしいと感じた理由の2割くらいは,文化会館の音響改善によるかもしれない。ホールも演奏者なんだよね。

2017年6月23日金曜日

2017.06.17 成城大学レストロ・アルモニコ管弦楽団 第40回メイフラワーコンサート

成城学園澤柳記念講堂

● アマチュアオーケストラの演奏会情報を得るのに,「フロイデ」はすこぶる便利だった。さすがに網羅的ではなかったものの,東京のアマオケの演奏会情報を知るのに,これ以上のサイトはなかった。
 ところが,昨年末から更新が間遠くなり,ついにはサイトそのものがなくなってしまった。管理人氏がお亡くなりになったようだ。

● それに代わるサイトは「オケ専」くらいだろうか。「フロイデ」に比べると高機能なんだけど(条件検索ができる),その分,かえって使いづらいようにも思う。広告が多いのは我慢するとしても。
 ただし,「フロイデ」がなくなったあと,頼りにできるのはこれくらいだ。その「オケ専」で成城大学レストロ・アルモニコ管弦楽団の演奏会を見つけた。

● 指揮は松岡究さん。松岡さんに指揮を頼めるくらいなら,かなりの実力を持ったオーケストラなのだろうと思って,聴きてみることにした。
 開演は午後2時。入場無料。会場は成城大学の構内にある澤柳記念講堂。もちろん,初めてのところ。

● 学内にこれだけのホールを備えているところ(大学)は珍しいのではないか。多目的ホールだけれども,少なくとも,東大の安田講堂や早稲田の大隈講堂より,使い勝手はずっと良さそうだ。新しい分,実用性においてアドバンテージを持っている。

● 曲目は次のとおり。
 ベートーヴェン 劇音楽「エグモント」序曲
 シベリウス カレリア組曲
 チャイコフスキー 交響曲第1番「冬の日の幻想」

● ところで,松岡さんは成城大学の卒業生なんですね。指揮をしたのはその縁ということなんでしょうか。
 この大学は文芸学部に芸術学科を備えているものの,美学・美術がメインのようで,音楽に関しては手薄い。
 松岡さんはその芸術学科を卒業したのかもしれないけれど,今日の松岡さんがあるのに成城大学が果たした役割は,限りなくゼロに近いのではないかと想像する。

● カレリア組曲はしっとりと聴かせてくれた。たまにシベリウスを聴くと,ジンワリ染みてくる。
 カレリア組曲に限らず,コンミスのコンミスとしての健闘が目立った印象がある。

● チャイコフスキーの第3楽章でオヤッと思う箇所があった。けれども,これ,反省するあまり落ちこむことのないように願う。すぐに立て直したんだしね。気を抜いてしまったわけでもないと思う。
 そもそも,演奏中に反省するのは御法度だ。終演後の反省も3秒でいい。案外,反省って何も産まないからね。

● 「冬の日の幻想」ってね,ロシアの冬ってどんななのかと,この曲を聴くたびに思う。幻想を見れるような生やさしい寒さではないはずで,当然,この幻想は家の中で外を見ながら(あるいは,見ないで)脳内に描いているものだろう。
 外国の曲を聴くときに,日本の四季に引き寄せてイメージを作ってしまいがちだけれど,それでいいのか。って,いいも悪いもない。そうして聴くことしか,ぼくらにはできない。
 そういう聴き方をしている異国の聴衆にもきちんと伝わるだけの普遍性を備えているのが,すなわち芸術というものだろうと,勝手に思うことにする。

2017年6月13日火曜日

2017.06.11 那須室内合奏団第9回演奏会

那須野が原ハーモニーホール 交流ホール

● 開演は午後2時。入場無料。曲目は次のとおり。
 パッヘルベル シャコンヌ
 クープラン スルタン
 ヴィヴァルディ 合奏協奏曲「四季」より“夏”
 モーツァルト 交響曲第25番 ト短調(弦楽合奏版)
 バロックとモーツァルト。前回も前半はテレマン,ヴィヴァルディ,ヘンデル。バロックだった。

● 曲間にこの合奏団の音楽監督である白井英治さんの解説がつく。白井さんによれば,バロックは小節線にとらわれず,途中から旋律が展開することが普通にあって,それが今聴いても新鮮に感じる,ということ。

● モーツァルトは古典派。古典派のバロックとの第一の違いは,ソナタ形式。バロックは変奏,フーガ,カノンといった技法で曲ができあがっているのに対して,ハイドンとモーツァルトは主題の提示-展開-再現というソナタ形式を作りあげた。
 以後,一部の例外はあるものの,ほとんどの作曲家はこれを踏まえている。よほどよくできた形式なのだろう。

● 終演後に白井さんが,一緒にやりませんかと団員勧誘。その際,大人になってから楽器を始めた人を立たせたところ,ヴァイオリンの3分の2以上の奏者が立ちあがった。
 プロになるなら5歳から始めていなければいけないんだろうけども,大人になってから始めても楽しめるんですな。あるいは,聴く人を楽しませることができる。

● 最も印象に残ったのは,1曲目のパッヘルベル「シャコンヌ」。それと,アンコール曲のシベリウス「アンダンテ・フェスティーヴォ」。
 旋律の美しさ。美しさを取ったら何も残らない。そこが素晴らしい。夾雑物がないということだから。

● ヴィヴァルディでは独奏ヴァイオリンとチェロが絡む箇所がある。ここは白井さんと賛助出演の本橋裕さんの絡みになるわけで,ここも聴きどころってことになるだろう。
 お得感があるところだ。

● 次回は天満敦子さんを向かえて,5月20日に大ホールで開催する。

2017年6月6日火曜日

2017.06.04 鹿沼ジュニアフィルハーモニーオーケストラ 第28回定期演奏会

鹿沼市民文化センター 大ホール

● 鹿沼ジュニアフィルの存在は知っていたけれど,定演を聴くのは今回が初めて。当然,今回で28回を数えることも知らなかった。かなり前からあったのだな。
 定演を知らないでいたのは,情報がなかったからだ。今回はたまたまTwitterでつぶやいてくれた方がいたから,知ることができたけれども,それがなければやはり知らないままで過ぎたろう。
 ま,定期的に鹿沼市民文化センターのサイトで催し物案内をチェックすればいいわけだけどね。
 開演は午後2時。入場無料。

● 曲目はベートーヴェンの5番とブルックナーの4番。交響曲が2つ,しかもひとつはブルックナーという重量級のプログラム。
 最近はこういうのが珍しくなくなったけれども,ジュニアでもその傾向があるのか。と思ってプログラム冊子を眺めたところ,自分の不明を恥じる結果になった。前からそうなんだ,ここ。
 第8回ではベートーヴェンの5番とショスタコーヴィチの5番,第14回ではレスピーギ「ローマの松」とベルリオーズ「幻想交響曲」,第15回はドヴォルザークの8番とストラヴィンスキー「春の祭典」,第20回ではマーラーの5番。

● 「ローマの松」にしても「春の祭典」にしてもマーラーにしても,大編成のオーケストラになるはずだ。「幻想交響曲」もそうだけれども,そもそも,ジュニアには難易度が高すぎるのではないか。
 本当にこれをやったのか。って,やったんでしょうねぇ。ちょっと驚きだ。

● プログラム冊子の“演奏者紹介”によると,このジュニアオケは鹿沼東中と西中の卒業生が立ち上げたものらしい。「近年は中学生が多くなってきました」ともある。東中と西中で部活で管弦楽をやっている生徒たちがジュニアのメンバーにもなっているんでしょ。
 東中と西中の定演は何度か聴いたことがある。その都度,この生徒たちの演奏で交響曲をまるごと聴いてみたいものだと思った。生徒たちもやりたがるんじゃなかろうか,とも思った。

● やっていたんだね。ジュニアオケで(全員ではないのかもしれないけれど)。しかも,たっぷりと。
 学校の部活のほかに,そちらまでやっているとなると,けっこう負担が大きいでしょうねぇ。好きなことなら負担を負担と感じないってことなんだろうかなぁ。

● 断言するけれども,大人になっても仕事に対してそれができたら,どんな仕事であっても必ずひとかどの人物になれる。まぁ,仕事となるとなかなか好きにはなれないものだけど。
 逆に,この生徒たちが授業と音楽に費やしている時間と労力を,並の大人が仕事に費やしたら,九分九厘,過労で倒れるかメンタルに疾患を来すだろうね。

● ベートーヴェンの5番は,当然,CDで何度も聴いている。CDはカルロス・クライバー&ウィーン・フィルのものだ。
 クラシック音楽の玄人筋には批判の対象でしかなくなった感のあるカラヤン。けれど,そういった批判者をぼくはあまり信用していない。おまえら,ほんとにわかって言ってるのか,程度に思っている。ぼく一個は,たいていの曲にはカラヤンの録音があるのだから,カラヤンで聴けばいいじゃないかと思う。
 が,カルロス・クライバーだけが例外で,彼の録音があれば,できればそれで聴きたい。ので,ベートーヴェンについていえば,4番,5番,7番はクライバーで聴く。その程度がぼくのこだわりといえばこだわりだ。

● って,どうでもいい話ですな。そのクライバーでベートーヴェンの5番は数え切れないほど聴いているってことです。
 しかし,そのCDと今回のジュニアフィルの生演奏とを並べて,どちらを択るかといえば,躊躇なく後者を選ぶ。生の迫力というのはハンパない。特に,5番のような曲はね。
 もちろん,その演奏が一定の水準に達していることが前提になるんだけど。

● 5番を「運命」と名付けているのは日本だけらしい。“曲目紹介”でも触れられているけれど,シントラーに対して,ベートーヴェンが「このように運命は扉をたたく」と言ったとか。どうもこれはシントラーの作り話のようだけどね。
 でも,「暗から明へ」という構成であること,第4楽章で歓喜が迸るような曲想になっていることは,誰もが認めるところなので,苦悩を通して歓喜にいたる音楽だという理解でいいのだろう。っていうか,それ以外の聴き方をするのはほとんど不可能だ。

● となると,この曲の第一の聴かせどころは,3楽章からアタッカでなだれこむ4楽章の冒頭の部分ということになる。われ,(運命に)勝てり,という高らかな勝利宣言。
 満を持して控えていたトロンボーンとピッコロも加わって,管弦楽が全身ではじけるところ。
 ここが少し弱かったような気がした。

● のだが。瑕疵ではないのでしょうね。あえてそうしたのかもしれない。解釈の問題かも。
 次のブルックナーを聴いたあとで,そう思い直した。できなかったのではなくて,やらなかったのだ。

● 中高生がここまでの演奏をすることに驚く。管弦楽の豊穣さを思い知らせてくれる。
 この曲をノーミスで通すのは至難。かといって,ミスるまいと守勢に入ってしまっては,つまらない演奏になる。演奏が横臥してしまう。
 あくまで攻める。ステージには間違いなくベートーヴェンが立ちあがっていた。

● 次はブルックナー。中高生がブルックナーを演奏するということ自体が,ぼくの常識にはなかったもの。
 ブルックナーの交響曲はそれぞれの楽章に交響曲の全体が折りこまれている(という印象を持っている)。交響曲が4つ集まって,ひとつの交響曲になっているのがブルックナー。
 4番もしかり。そこを強いていうと,1,2楽章でひとつのまとまり。3,4楽章でもうひとつのまとまり。全体として壮大な戯曲のようなもの。
 これを中高生が演奏しているという目の前の現実が,あり得ないことのように思われる。

● 出だしはお約束の“原始の霧”。そのあとに,静寂を破るホルン。ここ,責任重大。ここでホルンがこけたら,そこで聴衆の演奏全体に対する印象が著しく損なわれるし,そのあとのオーケストラ全体の士気をも大きく下げてしまう。
 ホルンの女子生徒,見事に責任を果たした。が,そこでひと息つくわけにはいかない。すぐに次の出番が控えている。

● 弦の清澄さ。低弦部隊がしっかりしているから,ヴァイオリンが思うさま踊ることができる。チェロの落ちついた響きが特に印象に残ったけれども,チェロに限らない。
 ファゴットをはじめ,木管陣の1番奏者の技量も相当なもの。1番はどうしても目立つのでそう感じるわけだが,1番だけではないだろう。

● この演奏をブルックナーに聴かせてみたい。さいはて(極東)の島国の,しかも地方の,しかも中高生の,この演奏を聴いて,ブルックナーはどう感じるだろうか。彼の感想を聞いてみたいものだ。

● あえて難癖をつけるとすれば,弦のピッツィカートだろうか。指先(だけ)で弾くと音が寝てしまう。ペチャっとなってしまう。三味線じゃないんだから,腕全体を使った方が良いような。
 もちろん,コンマスをはじめ,そうしている奏者の方が多かったとは思うのだが。

● というわけで,大きな拾いものをした気分。
 栃木県内の音楽のセンターは,ひとつは宇都宮大学(教育学部音楽科と宇都宮大学管弦楽団),もうひとつは音楽学科を有する宇都宮短期大学。
 そして,三番目の核がどうやらこの鹿沼にある。理由はわからないけれども,そうなっているらしい。

2017年5月30日火曜日

2017.05.27 作新学院高等学校吹奏楽部 フレッシュグリーンコンサート2017

宇都宮市文化会館 大ホール

● 2015年11月から改修工事のため休館していた宇都宮市文化会館。工事を終え4月から運営再開。その宇都宮市文化会館で,作新学院高校吹奏楽部のフレッシュグリーンコンサート。
 開演は15時。当日券を購入。1,000円(前売券は800円)。

● 会場時刻が近づくと長蛇の列。こんなに入りきれるのかと思うんだけど,行列って印象が強烈だから,実際の人数より多いと思ってしまうんですよね。文化会館の大ホールは収容人員が2千人超だから,この程度の行列なら問題なく飲み込める。
 とはいえ,その大ホールがほぼ満席となった。1階最前列と2列目に空きがあったけど,あとは埋まっていたんじゃないか。

● 行列でぼくの隣にいたのは,宇都宮高校の生徒。幼顔だったからまだ1年生だろうか。一人で来ていた。おお,同士よ,若き友よ。
 彼以外にも,他校生がかなりいる。中学生もいる。作新吹奏楽部はおそらく,吹奏楽の県内最高峰(社会人の吹奏楽団を含めて)。それだけ吸引力がある。

● 改修後も宇都宮市文化会館の基本的な構造は変わっていない。2階右翼席の前から7列目くらいの,一番左奥がお気に入り。そのあたりの造作もまったく変わっておらず,今日もその席に座ることができた。
 音響もかなりよくなったと聞いていたのだが,吹奏楽だと音響の変化は感じにくいかもしれない。

● 例によって3部構成。第Ⅰ部はコンクールステージとでもいえばいいんだろうか。次のような曲目だった。
 樽屋雅徳 ONE!
 江原大介 スケルツァンド(吹奏楽コンクール課題曲Ⅰ)
 木内 諒 マーチ・シャイニング・ロード(課題曲Ⅱ)
 保科 洋 インテルメッツオ(課題曲Ⅲ)
 西山知宏 マーチ「春風の通り道」(課題曲Ⅳ)
 真島俊夫 復興

● 顧問の先生の説明によると,明日はコンクールの説明会があるらしい。今日はこのコンサートが終わった後に,その説明会に向けての練習(?)か何かがあるようだ。高校や,特に中学校の吹奏楽部の顧問の先生も1階前方に詰めているっぽかった。
 今回,作新吹奏楽部が演奏した4つの課題曲は,あるいはそれらの人たちに向けての模範演奏という趣もあったのかもしれない。

● 間然したところがない。客席に届く音が二重線になっていない。いわゆる縦の線が揃っているというのとは別の話だ。縦の線も揃っているんだけども,それにとどまらない。
 吹奏楽としての一体感というのか,吹奏楽というひとつの楽器があって,その楽器が鳴っているという印象。

● 「復興」の初めの方にトランペットの独奏がある。男子生徒が吹いていた。たんに楽譜をなぞっているだけではなかったろう。思いをこめていた。それを解釈といってもいいだろう。
 本人が意識しているかいないかは別にして,彼は彼なりの解釈を加えたうえで演奏している。

● 第Ⅱ部はポップスステージ。
 最も盛りあがったのは「栄冠は君に輝く」。昨年の定演でも歌っていた女子生徒がボーカル(?)担当。ためらいがないのがいい。度胸が座ってる子だ。
 場の力も大きいでしょうね。度胸を据えるしかない場がステージにできあがっている。

● 聴いていてしみじみしたのは「スペイン」(真島俊夫編)。作新の技術の高さが遺憾なく発揮されていたといいますかね。
 その「スペイン」と「ルパン三世のテーマ」ではダンスも登場。こういうときのダンスって,添え物というか,ついでにやるね,って感じになりがちで,作新といえどもその例外ではなかったと思う。
 ところが,今回はそのダンスも見応えがあった。特に「スペイン」で中央にいた男子生徒。こちらの動体視力がとみに衰えているからかもしれないんだけど,動きが見えないときがあった。速いからだ。すっと消えたと思ったら,別の形になっているっていう。

● 第Ⅲ部はドリル。演し物は「オペラ座の怪人」。演じ手も用意して,ミュージカルの趣もある。が,ストーリーをステージの演奏や演技だけで追っていくのは無理だ。事前にプログラム冊子を読んでストーリーを頭に入れておいた方がいいでしょうね。
 前回までフォーメーションの展開は打楽器奏者が中心になって担っていたように記憶しているんだけど,今回は打楽器は奥に陣取って,管楽器奏者が主にラインを作った。

● このドリル,見ている分にはすこぶる面白い。ストレスが吹っ飛ぶ。
 が,演奏する方は大変でしょ,これ。タイミングがずれるとか,出だしの音程を取り損ねるとか,わりとありがちだろう。何より疲れるだろう。
 こういうのって上手くやるコツがあるんだろうか。

● しかし,見事な仕上がりだった。この時期にここまでできているんだから,秋の定演が楽しみだ。
 今年は50名を超える新入部員がいて,総勢110名になったという。50名を超える新入部員はすでにして精鋭の集まりだろう。吹奏楽をやりたいから作新学院に入学したという生徒ばかりだろう。
 結果,作新吹奏楽部に死角はない。圧倒された。若い彼ら彼女らの前に,ぼくら年寄りは謙虚でなくてはならぬ。
 今年度は東関東の高い壁を越えて,全国に駒を進めるに違いない,と予想しておく。

2017年5月29日月曜日

2017.05.21 東京藝術大学同声会栃木県支部 トーク&コンサート

栃木県総合文化センター リハーサル室

● 2014年に続いて2回目の拝聴。トーク&コンサートとある。プログラムから察するに,フォルテピアノについてのレクチャーと演奏,エリック・サティについての解説と彼の曲の演奏だろう。
 正直,レクチャーはいいから(そういうものはネットをググればまとまった情報を得ることができるだろう),演奏だけ聴かせてくれないかなと思って,出かけていったわけなんだが。
 チケットは2,000円。当日券を購入。開演は午後2時。

● まず,フォルテピアノ。トークも演奏も村山絢子さんが担当。フォルテピアノは何度か聴いているから,その音色を知らないわけではなかった。
 だけども,言われて初めて気づくということがあって(っていうか,そればかりなんだけど),現代ピアノに比べて,フォルテピアノは音の滞空時間が短いというのもそのひとつ。言われてみれば,この違いは大きいでしょうね。

● メインは演奏の方で,特に最後のベートーヴェンの月光ソナタには圧倒された。村山さんはこの曲を数え切れないほど演奏しているに違いないけれど,その中でも今回の演奏は会心の出来だったのではないかと愚考する。
 「月光」って激しい曲だ。その激しさは静かな第1楽章があるがゆえに際立つ。その第1楽章の静けさがジーンと来たなぁ。

● ノーベル賞を受賞したたしか益川敏英さんだったと思うんだけど,「月光」について語っていたのを新聞で読んだことがある。「月光」の第1楽章はつまらない,第3楽章だけ演奏すればいいのでは,と中村紘子さんに言ったところ,第1楽章がなかったら第3楽章もないでしょ,とたしなめられたという話。
 音楽はクラシックしか聴かないとも言っていた。何というか,さすがはノーベル賞受賞者で,けっこう偏っているようだ。

● 第1楽章がつまらないというのも,独特の感性だ。益川さんが「月光」の第1楽章をつまらないと感じる所以はわからないけれども,フォルテピアノのこの演奏を聴いたら,ひょっとしたら前言撤回となるかもしれない。
 いや,ならないか。そこは偏りが身上の偉人だもんなぁ。

● 後半はエリック・サティ論。こちらはレクチャーがメイン。キーワードはダダ(ダダイズム)。
 ダダという言葉を初めて知ったのは,吉行淳之介の『詩とダダと私と』を読んだとき。父親の吉行エイスケ氏がダダの体現者であったらしい。
 このエッセイ集は1979年に出ている。ぼくが読んだのはその数年後。
 けれども,ダダとはそも何ものなのかはよくわからなかった。モボ・モガとか,タケノコ族とか,要するに若者が既存秩序に反抗して見せるパフォーマンスをいうのかと思っていた。したがって,ダダ的現象はいつの時代にでもあり得るものなのかな,と。

● 浅薄すぎる理解だった。今回の浦島真理さんのレクチャーでこのあたりの疑問が氷解した。
 ダダイズムは1910年代にヨーロッパで起こった「芸術思想・芸術運動」だった。背景には第一次世界大戦に対する虚無感がある。
 既成秩序への反抗を中核とするものの,理性や作為を否定するというところまで行くというのは,今回のレクチャーで知ったこと。

● それが美術においては,たとえばデュシャンの「泉」になる。男性用小便器にサインをしただけのものがなにゆえ芸術として認められるのか。
 作品としての「泉」をいくら見つめたところで,理解できないだろう。時代背景を踏まえて初めて,理解に至るかどうかは別として,そういうことなのかとわかった気になる。
 したがって,今,誰かがデュシャンと同じようなことをしたところで,一笑に付されて終わるしかない。小学生ですら洟もひっかけないだろう。時代の拘束力というか空気というか,その力は絶大なんでしょうね。

● 音楽家のサティにおいては,音楽はBGMであれ,ということになるわけか。「音楽」ではなく「音響」でなければならない,と。人の邪魔をしない音楽。
 もともと,サティには反抗精神があったようだ。上流の人たちが行儀よく聴くものであった音楽に対して,ザケんなよ,それがナンボのもんだよ,という。

● しかし,そもそもそこに矛盾がある。当時の大衆には「音楽」も「音響」もない。たとえ「音響」であっても,演奏されるものをわざわざ聴きに行くなんてことはまずしなかったろうから。ゆえに,サティの影響力は限定的なものにならざるを得ない。
 音楽の大衆化が実現するには,録音の技術とそれを再生するプレーヤーの普及を待たなければならなかった。日本でそれが本格化するのは1970年代ではなかったか。

● そして,時代は変わった。大衆も「音楽」を「コンサートホールで行儀よく聴く」ようになった。少なくとも日本ではそうだ。
 邪魔にならない音楽をことさらに求める必要もなくなった。今のぼくらは,BGMとしてたとえばモーツァルトのセレナーデやディヴェルティメントを選ぶ。サティへの需要はあまりないだろう。

● さらに時代は進んで,音楽はデジタルデータに還元されるものになった。こうなると,クラシックもジャズもロックもポップスも,デジタルデータとして横一列になる。
 クラシック音楽がまとっていた文化性,教養性,芸術性といったものは,もうすでに半ば剥ぎ取られているのではないだろうか。大衆化が極まると自ずとそうなるのかもしれない。

● 繊細に時代に寄り添うと,後の時代の人たちには顧みられなくなる。しかし,その時代にこういう人が生きたのだという足跡は残る。
 デュシャンもサティも時代を生きた人であった。それで充分ということだろう。というか,ほとんどの人はそれができない。繊細であることはかなり難儀なことだから。

● 実演の方は,齊藤文香さんが「スポーツと気晴らし」をピアノで演奏。

● ところで。この日はTシャツに半ズボン,素足にサンダルといういでたちで出かけてしまった。どう考えたって,音楽を聴く場に行くのに似つかわしい恰好ではない。奏者にも失礼だ。
 だけど。暑くてどうしようもなかったんですよ。靴なんかはいたんじゃ,足が溶けてしまいそうだったんですよ。
 でもそんな格好をしていたのはぼくの他にはいなかった。無礼千万でありました。

2017年5月17日水曜日

2017.05.14 矢板ロータリークラブ創立50周年記念 オペラ「泣いた赤鬼」

矢板市文化会館 大ホール

● この催しがあることを知ったのは,4月30日に矢板東高校のプロムナードコンサートを聴きに同じ会場に行ったとき。
 隣にある市立図書館に「泣いた赤鬼」のポスターが掲示されていた。演者はプロのようだ。しかも,入場無料だ。じゃぁ行ってみようかという,わりと単純な理由。

● 絵本の『泣いた赤おに』は中年になってから読んだ記憶がある。梶山俊夫絵の偕成社版だったと記憶する。作は浜田廣介。
 しかしながらというか,当然にしてというか,どういうストーリーだったかはすっかり忘れている。

● 開演は午後1時。ロータリークラブの記念行事のこととて,入場は無料。ただし,事前に申し込んで整理券を取っておく。
 ネットで申し込んで,プリントアウトしたのを持参した。けれども,どうやら整理券などなくても入場できたようだ。受付の担当者は整理券など見ようともしなかったから。
 客席は3割ほどしか埋まっていなかった。少し寂しい。が,こんなものか,だいたい。

● 「泣いた赤鬼」のストーリーはこうだった。

 赤鬼は人間たちと仲良くなりたいと思って,遊びに来てよと立て札を立てた。が,人間は誰も遊びに来てくれない。
 どうにかしたい赤鬼は友人の青鬼に相談する。青鬼は即座に提案する。自分が悪役になって人間たちをいじめるから,君はそこに助けに来い。そうすれば人間たちも君が優しい鬼だとわかるだろう。

 その計画を実行すると青鬼の目論見どおり,人間たちは赤鬼の家に遊びに来るようになった。赤鬼は人間たちと楽しく遊ぶことができるようになった。
 けれども,日数が過ぎるうちに青鬼が自分を訪ねてこなくなったことに気がついた。
 そこで,青鬼の家を訪ねると,赤鬼へのメッセージが貼られていた。自分とつきあったのでは,君もまた悪い鬼だったと思われかねない。だから,ぼくは旅に出るよ。

 赤鬼はそれを繰り返して読み,そして泣いた。最も大事な友だちを犠牲にして,その友だちを失ってしまった, と。

● このストーリーには色々と突っ込みどころはある。そんなの,事情を人間に話せばいいじゃないか,彼らもバカじゃないんだからわかってくれるよ,とか。
 しかし,絵本の寓話であるのだから,これくらい骨太の単純なストーリーでいいのだろう。っていうか,それでなければならないのだろう。枝葉を削いで削いで,最後に残ったのがこれだ。

● それをオペラにしたというわけだ。約70分の1幕オペラ。伴奏は1台のピアノ(小笠原貞宗さん)。
 演出は直井研二さん。塩谷町出身の人らしい。指揮は苫米地英一さん。
 演じたのは埼玉県和光市に本拠を置く「オペラ彩」の皆さん。登場人物は7人。赤鬼が布施雅也さん(テノール),青鬼が星野淳さん(バリトン),木こりに伊東剛さん(バス),その娘に飯尾玲子さん(ソプラノ),百姓に大橋正明さん(テノール),その女房に和田タカ子さん(ソプラノ)。そして,歌うナレーターに蒲原史子さん(ソプラノ)。以上の布陣。

● 無料でここまでの劇を鑑賞できるのはありがたい。というのは置いておいても,世の中にこれは子供向け,これは大人向け,っていうのはないのかもしれない。いいものとそうでもないものがあるだけで。
 大人が見て面白いものは,子供が見たって面白いのだろう。大人がつまらないと思うものは,子供だってつまらないと思うだろう。

● オペラ仕立てじゃない,普通の演劇もあるんでしょうね。ストーリーに少し枝葉を付け加えて,やはり70分程度の演劇にすることはできるだろう。
 可能ならそちらも見てみたいものだ,と無難にまとめてしまおうか。

2017年5月12日金曜日

2017.05.06 間奏56:宇都宮北高校吹奏楽部の第31回定期演奏会に行けなかった件

● 今日は宇都宮北高校吹奏楽部の定期演奏会がある。チケットも前売券を購入済みだ。
 が,4日から3泊の予定で,相方と東京に休みに来ている。

● 東京から宇都宮に出て,終演後にまた東京に戻るという酔狂をあえてしてまで,聴く価値があることはわかっている。
 自惚れかもしれないのだけど,その模様を記したぼくのブログを楽しみにしてくれている生徒さんも何人かはいらっしゃるのではないか,とも思っている。

● だから,よほどその酔狂を実行してみようかと思ったのだけど,それを相方に言いだすことはできなかった。
 何というのか,家庭の事情というやつで,目下のところは女房孝行を最優先にしないと。

● とはいえ,この演奏会を聴けないのは残念だ。黄金週間に穴が空いたような感じだ(高校生の吹奏楽の演奏会程度で何を大げさなと思われるかもしれないんだけど)。
 基本,黄金週間にどこかに出かけてはいけないのだよね。こういう大きな取りこぼしが出てしまうから。

● 若い人たちの演奏っていうのは,若いというそれだけで,何らかの魅力を発する。逆に,30代か20代も後半になると,その「何らか」がなくなって,人(奏者)によっては悩む時期に入るのだろうとも思う。
 ともあれ,その「何らか」を満喫するのに,宇都宮北高校吹奏楽部の定期演奏会は格好のものだ。というより,栃木県に限れば,それに代わるものがない(ま,このあたりは,ぼく一個の嗜好がかなり入りこんでいるはずだけど)。

● いや,東京で3日目になるんだけど,過ぎた2日間も楽しかったんですよ。ニューヨークにもロンドンにもベルリンにも行ったことはないんだけど,近くに東京があるのに何でそんなところまで出かけなければならんのかと思っているクチなんですよ。
 東京でまだ行ったことのないところはたくさんある。そういうところをブラブラと歩いていると,東京って都市としては奇跡的に快適な集積を作っているのではないかと思える。

● しかし。東京にはいつでも行ける。正確にいうと,いつでも行けるわけではないけれど,今日の東京のほぼすべては明日になっても,変わらずにそこにある。
 ところが,この演奏会は見事に一回きりなわけで,今日聴かなければ,もうそれっきりだ。

● けれども,今回はそれよりも大事なものを選んだのだと,自分を納得させている。

2017年4月30日日曜日

2017.04.30 矢板東高等学校合唱部・吹奏楽部 第14回プロムナードコンサート

矢板市文化会館 大ホール

● 3年連続3回目の拝聴。合唱部と吹奏楽部が合同で開催する。
 過去2回の印象からこの演奏会の特徴を一言でいえば,“手作り感”ということになる。手間暇をかけて手作りで作り込んできた感じがする。
 技術も相当な水準だけれども,技術だけをいえば,ぼくの知る範囲に限ってもここを凌ぐ高校が栃木県内にいくつかある(これは吹奏楽の話)。
 が,このコンサートの風合い,肌触りは,唯一無二といっていいだろう。つまり,他にはないものだ。

● まず,第1部は合唱部。部員数は14名。うち,男声は3名。例年のごとし。しかし,少数精鋭という言葉もある。

● 「昭和のヒットソングメドレー」は流行歌(死語?)を合唱にアレンジするとこうなりますよという,ひとつの範例。編曲の腕ですな。
 山口百恵「プレイバックPart2」なんか特にそうで,なるほどなぁと思って聴いた。

● 「曲の合間のMCにもご注目ください」とある。女子が男装して,男子が女装してっていうのはわりとありがち。ありがちでもこれは受ける。鉄板だね。女子の男装は様になるけれども,男子の女装はギャグにしかならないわけで,その落差がまず面白い。
 今回の寸劇では,男装した女子(眼鏡をかけてた子)が支えていたかな。彼女が管弦楽でいえばチェロかコントラバスの役割を果たして,舞台を整えたという感じ。

● テルファー「MISSA BREVIS」には3月に卒業したOB・OGも参加。おぉ,ガストンがいるじゃないか。
 Missa brevis は短縮版(クレド=信仰宣言,を含まない)のミサ曲という意味で,小ミサ曲と訳されるのが普通。フォーレやペンデレツキが有名かもしれない。
 誰の曲でも歌詞は変わらない。定例文だ。ぼくが聴くと,曲まで同じに聞こえたりする。困ったもんだ。
 神に捧げる曲なんだから,当然,ラテン語でしょう。高校生がラテン語で歌うんだからね。

● 第2部は吹奏楽。54名で活動していると部長が紹介していた(と記憶する)。
 部員数が54名というのは,まぁ普通だねって感じだけれど,矢板東高校は1学年4クラスで,定員は160のはず。3学年合わせても480。とすると,吹奏楽部の部員比率はかなり高い。そんなに多いのかという印象になる。
 加えて,附属中から吹奏楽をやってきている部員の比率が高いようだから,これからが楽しみだということ。

● 演奏した曲目は次のとおり。
 真島俊夫編 宝島
 樽屋雅徳 民衆を導く自由の女神
 西山知宏 春風の通り道
 アーノルド(天野正道編) 管弦楽組曲「第六の幸福をもたらす宿」より
 オリジナル ドラマ「三太郎」
 久石譲(真島俊夫編) ジブリ・メドレー

● 「民衆を導く自由の女神」は附属中の生徒による演奏。毎回思うことだけれども,高校生の演奏に比べても,ほぼ遜色がない。このまま直線的に伸びていけば大変な集団になる。
 ところが,直線というのは自然界には存在しないもので,そこが難しいところだ。伸びなやみというのがあるに決まっている。そこで腐らないでいられるか。
 ひょっとすると,才能っていうのは,その腐らないでいられる能力のことをいうのかもしれないね。

● ドラマ「三太郎」は矢東presentsというわけなのだが,客席サービスに徹したもの。いや,徹してはいないな。自分たちも楽しみたいよってのもあるもんね。よろしい,人生は楽しんだ者勝ち。
 三太郎は浦島太郎,ピコ太郎,葉加瀬太郎のことだったんだけれども,誰が思いつくのかねぇ,こういうことを。と思っていたら,auのCM「三太郎」を下敷きにしたようだった。あれは,桃太郎,浦島太郎,金太郎だけれども。

● 葉加瀬太郎のときに演奏した「情熱大陸」。この演奏が今回,最も印象に残るものになった。
 一部を聴かされただけでは欲求不満が残る。頭から尻尾まで全部を聴いてみたかったね。
 「情熱大陸」っていい曲だもんね。何かちょこっと聴きたいとき,ぼくは「情熱大陸」かピアソラの「リベルタンゴ」を聴くことが多いんだけどね。ま,どうでもいい話なんだけどさ,これは。

● ジブリ・メドレーやディズニー・メドレーは,たいていの吹奏楽団の演奏会で登場する。お客さんも知っている曲だから楽しんでいただけるでしょ,っていう配慮もあるのだろう。
 曲じたいもいいしね。ジブリにしてもディズニーにしても,駄作はほとんどないのじゃないか。
 しかも。ジブリ・メドレーって,演奏する側の技術の度合いがわりとストレートに出るよね。ヘタクソにジブリを演奏されると腹が立つんだよ。ザケんなよ,ジブリってこんなもんじゃねーよ,とか思うんだよ。

● で,何が言いたいのかというと,ジブリを聴いたという満足感が残ったってことなんですけどね。いや,本当に。見事な演奏だったと思いますよ。
 
● 第3部はミュージカル「アラジン」。ミュージカルというには,ダンスが少ない,というかほとんどなかったじゃないか,と感じる向きもあるかもしれないけれども,それはそれ。
 衣装にも工夫があって(特に,じゅうたん),この衣装も生徒たちが手作りしたんだろうか。

● 今回は,ジーニー役の男子生徒に尽きる。彼なくしてこの劇はあり得なかった。声量といい,舞台狭しと動き回る敏捷さといい,圧倒的な存在感を放っていた。
 しかも,一切,手抜きがない。1秒たりとも気を抜いた瞬間がない。
 手を抜くなと言葉で言うのは簡単だけれども,実際にそれを体現するのは容易じゃない。どこかで手を抜く。それが普通だ。メリハリをつけるというのは,手を抜く局面を作るというのと同義だったりもする。
 彼の場合,そういうことがなくて,ずっと集中が切れなかった。自分の出番ではないときでも,舞台袖でステージに参加していたはずだ。

● “熱”を持っているんだろうね。“熱”は,東大に合格できる程度の勉強頭よりは,はるかに価値の高いものだ。これから遭遇するであろう人生の諸々の事がらに対する際に,最も使える武器を手にしているようなものだ。両親から良い資質をもらって生まれてきた。羨ましいぞ。
 熱血漢だと時にウザがられることがあると思うけれども,そこは状況を見て演技をすればいいだけのことだ。

● その“熱”がステージで彼にオーラをまとわせた。そういう印象だ。
 だが,それだけではない。終演後に「恋ダンス」が披露されたんだけれども,そのおまけの「恋ダンス」でも,彼に手抜きはなかった。普通でいいとは思っていないらしい。手抜きの親戚であるところのテレもない。
 のみならず,動きの切れが頭抜けていた。素晴らしい。

● 先に,「技術だけをいえば,ぼくの知る範囲に限ってもここを凌ぐ高校が栃木県内にいくつかある」と言った。けれども,先を行く他校生の背中は,この高校の吹奏楽部の部員たちにも見えているはずだ。はるか先にいるのではない。
 いずれは差を詰め,ついには追いつくことも充分に予感させる。ひょっとしたら,そんなに遠い将来の話ではないかもしれない。
 が,そうなった暁にはこのコンサートも今のままではいないだろう。違ったものになっているはずだ。そうならざるを得ないものだ。

2017.04.29 ルックスエテルナ 教会のコンサート「ルネサンスの響き」

カトリック松が峰教会 聖堂

● 2013年に続いて2回目の拝聴。開演は午後3時。チケットは1,000円。事前にメールで申しこんでおいて,当日引き換えるという形。当日券もあったようだ。

● 松が峰教会の聖堂,失礼ながら聖堂というにはキッチュな印象を受ける。荘厳品にプラスチック製品があったりするからだ。
 掃除も日本の社寺(の一部)のように浄められたという感じにはなっていない。浄めるということの感覚が欧米と日本では違うのかもしれない。日本の社寺は(いわゆる観光社を除くと)“葷酒山門に入るを許さず”的に外界から隔絶されているのに対して,教会は集会所でもあるという性格の違いから来るのでもあるだろう。

● 曲目は次のとおり。
 デュファイ Missa Se la face ay pale(ミサ もし顔が青いなら)
 ジョスカン Missa Pange lingua(ミサ 歌え舌よ)

● プログラムの曲目解説に,簡潔な説明がある。が,これを読んでサッと理解できる人は,ルネサンス音楽に相当詳しい人でしょうね。ぼくは何度か読み返すことになった。

● どちらも合唱曲(と言っていいんだろうか)としては大曲だと思う。これをステージにかけられる合唱団(と言っていいんだろうか)はそんなにないだろう。少なくとも,栃木県ではこのルックスエテルナだけかと思われる。
 それ以前に,この2曲のすべてを生で聴ける機会というのは,極く少ないはずだ。少なくともぼくの場合,今回が最初で最後になりそうな気がする。もっと聴きたければCDで,ってことだ。

● 奏者の一人ひとりが一騎当千。とても巧い。そこだけはぼくにもわかる。特に男声にそれを感じる。テノールは遠くまで届き,バスはしっかりと土台になっている。
 これってたぶんあれだよね,その他の合唱団の多くが男声が弱いからなんだと思いますよ。他との違いの最も明瞭なところが,ここなんだってことなんですよ。
 少数精鋭でもある。少数だから精鋭でいられるのだと思われる。数を増やしてしまってはいけないのかもしれない。

● ジョスカン『Missa Pange lingua』の前に,テノールだけの演奏があった。
 以下は,プログラム冊子からの引き写しになるのだけれど,「『Missa Pange lingua』は,同名のグレゴリアン・チャントをモチーフとした循環ミサ曲であ」るらしく,その「グレゴリアン・チャント『Missa Pange lingua』の一部分を,テノールが演奏」したということ。
 グレゴリアン・チャントとはつまり,グレゴリオ聖歌のことですね。
 
● 松が峰教会の聖堂は,音楽のコンサートにもわりと使われるところで,ぼくもここで何度か聴いたことがある。音響は独特だ。残響が長いのが特徴かもしれない。
 特に今回のように,神に捧げる音楽あるいは神を讃える音楽の場合,それを教会で演奏したいと演奏する側が考えるのは理解できる。そこに何の齟齬があるわけでもない。

● でも,ここはコンサートには向かないところだと思うんですよ。
 まず,固い木のベンチに座っていなければいけない。同じ姿勢を保っているのがけっこう辛い。

● 聖堂内部にアーチを支える支柱が何本もあって,これが視界の邪魔をする。演奏者の全体が視野に入る席は,中央の前3列くらいではないだろうか。それ以外は支柱が視界を遮ってしまう。
 ぼくが座った席も,支柱によって演奏者の半分が見えなくなった。これ,かなりフラストレーションが溜まる。
 その不快感のために,演奏を聴くという行為に没入できなかった感がある。それでは聴いたことにならない。

● CDではなく生を聴くことのアドバンテージは,奏者が見えるところにある。視覚から入ってくる情報の多さ。その情報を曲解したり誤解したりできる自由さ。そこがライヴの生命線だと思っている。その生命線が,この会場ではまったく担保されない。
 ゆえに,この会場で聴くのは今日をもって最後にすると決めた。例外は作らない。

2017.04.20 フジコ・ヘミング&イタリア国立管弦楽団

栃木県総合文化センター メインホール

● フジコ・ヘミングは不思議な,あるいは特異な,存在だ。クラシック音楽の演奏家の中ではたぶん,1位か2位の知名度を誇る。CDは売れるし,コンサートを開けば,チケットはかなり高額なのにもかかわらず,大勢の観客が集まる。
 一方で,音楽会の中枢にいる人たち,クラシック音楽を自分は知っていると自認する人たちの多くは,彼女に近づこうとしない。存在していないかのように扱う。

● 彼女が知られるに至った経緯がテレビのドキュメンタリー番組だったこととか,彼女の生いたちから彼女を「魂のピアニスト」と形容する興行界のやり方に,嫌悪を感じる向きもあるのかもしれない。
 技術的にも見るべきところはない,だいたい指が速くは動かないじゃないか,といった声も聞く。

● さらに,普段はコンサートに出かけることなどないのに,フジコ・ヘミングのピアノなら聴きにいくという人たちを,一段下に見ているようなところもあるんだろうなと,これは邪推だけれども,想像する。
 しかし,理由はどうあれ,集客力があるというのは,凄いことですよ。

● ぼくはといえば,4年前に初めて彼女のピアノを聴いた。それで気がすんだ感はある。
 しかし,今回はイタリア国立管弦楽団も登場する。メンデルスゾーンの4番を演奏する。これは聴いてみたいと思った。

● 開演は18時半。ぼくのチケットはA席で8千円。実質4階席。ぼくの1列前はS席(1万円)のはずだ。
 平日の夜なのに客席はほぼ満席。宇都宮でもこうなんだから,フジコ人気は衰えていないということなんでしょう。

● となると,たとえば栃響の演奏会に比べると,客席の水準は下がるだろう,楽章間での拍手もほぼ100%の確率で発生するだろう,と思っていた。
 だけども,結論から言うと,そんなことはなかったんでした。楽章間の拍手は一切なし。自らの思い込みを恥じなければいかん。
 ぼくもまた,音楽ファンではないのにフジコファン,という人たちを一段下に見ていたということになる。だから,何様だオマエ的な言い方になってしまうのだろう。

● 曲目は次のとおり。指揮はトビアス・ゴスマン。
 モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」序曲
 モーツァルト ピアノ協奏曲第21番
 ショパン エチュード第12番「革命」
 リスト ラ・カンパネラ
 モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」より「シャンパンの歌」
 メンデルスゾーン 交響曲第4番「イタリア」

● 今どきのオーケストラだから,イタリア国立管弦楽団といってもメンバー全員がイタリア人ということはない。東洋系もいたし,スラブかと思われる色白の女性奏者もいた。
 それでも,ドイツとは違う,イタリアならではの演奏の色合いのようなものがあるのかと思ったりもしたんだけど,そんなものはないんでした。いや,聴く人が聴けばあったのかもしれないんだけど,ぼくには知覚できないんでした。

● イタリア人っていうと,女性を見ればその隣に彼氏がいても声をかけるとか,ケセラセラ的な生き方というか,人生楽しんでナンボという快楽主義というか,そういう連中なのだっていう刷りこみがこちら側にある。ラテン気質というやつ。
 演奏にもそんな風情がないかと,つい思ってしまう。あるわけがない。
 しごく真っ当なんでした。「フィガロの結婚」序曲を聴いて,むしろケレン味のない素直な演奏だと思った。余計なことをしない。必要にして十分な所作。浮ついたところはない。そりゃそうだよね。

● ピアノ協奏曲でフジコさん登場。場内割れんばかりのとまでは言わないけれど,大きな拍手が起きた。
 ゆっくり目のテンポで展開していった。最近は,書き手がここは大事なところと考える部分をゴシックにしたり,線を引いたり,色を変えたりする書籍が普通にあるけれども,なんかそうした書籍を連想させる演奏だった。ここが肝だよっていうのがわかりやすかったっていうか。
 協奏曲の出来を決めるのは,独奏楽器ではなくて管弦楽だ。イタリア国立管弦楽団,軽快でいい感じ。

● 次は,フジコさんの独奏。プログラムではリストの「ラ・カンパネラ」を演奏することになっていた。が,その前にショパンの「革命」を。アンコールを先に演奏したということか。
 「ラ・カンパネラ」は彼女が出している多くのCDの過半に収録されている。フジコ・ヘミングといえば「ラ・カンパネラ」。
 で,その「ラ・カンパネラ」なんだけど,この曲,彼女以外のピアニストの演奏を生で聴いたことがない。そういう前提で申しあげれば,彼女の演奏はたしかにゆっくりしている。ミスもある。
 ただし,彼女自身はそのミスに対して気持ちを乱されていないようだ。気にしていない。全体を見てよね,ってことだろうか。

● ゆっくりな分,絵画的なイメージが湧いてくる余地が大きくなる。とはいえ,速ければイメージが湧かないのかどうか,それはわからない。
 絵画的なイメージというのもあやふやな言い方だけれど,それが演奏に負う部分がどの程度なのか。リストのこの曲に内在されているところがほとんどなのかもしれない。
 そのあたりの切り分けはあまり意味のないことだとも思うんだけど,気になるならさらに複数の奏者の演奏をCDで聴きこまないとね。

● で,ぼく一個の結論を言うと,いいと思う,この演奏。しみじみする。速いとか遅いとか,どうでもいい。
 たしかにミスは気にならない。演奏者が気にしていないから,それが感染するのかもしれない。

● 「シャンパンの歌」はグルダン・エイジロウという若いバリトン歌手が歌った。若い彼に機会を与えたいというフジコさんの計らいだったようだ。

● 最も楽しみにしていた,メンデルスゾーンの4番。先にも書いたように,これがイタリアの楽団かと思ったところはない。オケの名前を知らないで聴いて,ドイツの楽団だと言われればそうかと思うし,日本の楽団だよと言われても,やはりそうかと思うだろう。
 全体として軽みが身上のように思われた。スキップするような軽やかさ。もともとこの曲は軽快に始まる。重厚さは似合わないわけだけど。

● オーケストラのアンコールは,ロッシーニ「絹のはしご」序曲と「ふるさと」。あの文部省唱歌の「ふるさと」だ。
 今回がツァー最後の演奏になるらしいのだが,これまでも同じ曲目でアンコール演奏をしてきたらしい。外国のオーケストラに「ふるさと」を演奏されては,日本人としては参ったするしかない。

2017年4月27日木曜日

2017.04.16 PROJECT Bオーケストラ第5回演奏会(PROJECT B 2017)

第一生命ホール

● 昨年に続いて,2回目の拝聴。
 有楽町で降りて,会場の第一生命ホールまで歩くのも,これが2回目。晴海通りを,銀座,築地,月島と歩いていくわけだけど,田舎者には期せずして東京見物ができるコースだ。
 世界の銀座,歌舞伎座,築地本願寺,隅田川と次々に名所が現れるんだからね。歩いていて飽きることがない。

● 第一生命ホール,767席。音響はじつに素晴らしい。紀尾井ホールと比べたくなる。規模も同じくらいか。
 この席数だと,すべての席が埋まっても,プロのオーケストラが興行的に採算に乗せるのは難しかろう。チケットをかなり高くしないと。でも,室内楽には最高の舞台になるかもしれない。

● F生命に百数十万円を騙しとられたことがある。昔のことだ。ま,騙しとられたというと,言葉がきつすぎるし,そもそもそういうのは騙される方が悪いということなんだけど。
 いわゆる生命保険のオバチャンにしてやられた。彼女,嘘をついたわけではないのだけれども,今の言葉でいえば説明責任を充分に果たしたとは言い難い。いいことだけ言って,それに伴う(ぼくにとっての)マイナスの説明はスキップしたところがある。
 だから何だと言われれば,生命保険会社にはいい印象を持っていないってことね。マイナス金利なんてことになって,生保もいろいろ大変だろうけどね。

● だからといって,第一生命ホールの良さが損なわれるわけではもちろんない。いいホールであることに変わりはない。
 座席の配置も1列ごとに席の半分をズラしているから,前の人の頭が視界からはずれる。これはありがたい。
 もっとも,たとえば宇都宮の総合文化センターもそのような配置になっている。ただ,ここまで思い切りよくズラしているところはそんなにないのじゃないか。

● 前後左右にゆったりしているのも特徴。ミューザも芸劇も,ここの座席に比べるとかなり窮屈だ。同じエコノミーでも,レガシー・キャリアとLCC程度の違いはある。
 席数を増やすことよりも,観客の快適さを優先した造作になっている。公共セクターではなかなかこういうものは作れまい。民間なればこそ。

● さて,その贅沢なホールで聴いたのは,ベートーヴェンの交響曲3番「英雄」とピアノ協奏曲5番「皇帝」。
 ピアノは今回も田中良茂さん。指揮は畑農敏哉さん。
 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を購入。ほぼ満席になった。

● じつは,この日,行ってみたいコンサートがもうひとつあった。「昭和音楽大学&ソウル市立大学校 日韓大学交流コンサート」というやつで,こちらは昭和音楽大学「ユリホール」で開催された。最寄駅は小田急の新百合ヶ丘。
 若い学生さんの声楽やピアノにも惹かれる。どっちにしようか今朝になっても迷っていた。
 が,出立が少々出遅れてしまったので,近い方を選んだ。新百合ヶ丘でもたぶん間に合ったとは思うんだけど。

● 演奏が始まって10秒後には,こちらを選んで正解だったと思った。この楽団の演奏水準もかなりのもの。前回聴いてわかっていることではあるのだが。
 東京にはここまでやれるアマオケがいったいいくつあるんだろう。何もかもが東京に一極集中していると思うしかないねぇ。

● 今回は「英雄」の第2楽章が白眉だったと思う。葬送行進曲。どこがどう良かったのか,説明せよ。
 と言われても,良かったから良かったとしか言えない。良かったと感じるのは,演奏それ自体のほかに,聴く側の状況も影響するのでね。“良かった”を言葉で分析できる人なんて,おそらく世界中を探してもいないんじゃないか。

● ぼくのような俗物は,生でオーケストラの演奏を聴きながらも,日常些事のあれやこれやが頭を去来して,なかなか“聴く”ことに没頭できない。
 4月から仕事の環境が変わって,いまいち適応しきれないでいる。だもので,ため息とか愚痴(脳内で独りごちるわけだが)とか,演奏を聴きながらも,出てくるんじゃないかと思っていた。
 が,今回に限っては,そんなことはなかったんでした。約2時間,浮き世から遮断された。

● 葬送行進曲には特に。葬送といっても,悲しみ一色ではない。随所に華があり,星が瞬くような煌びやかさがあり,四季の移り変わりまであるような気がした。
 なるほど,英雄を送る曲とはこういうものかとも思った。

● 演奏が放つ演奏に集中させる力,吸引力が半端なかった。ステージからこちらに届いてくる音の気持ちよさ。
 よどみのない流れ。静かにゆっくりと歩いているところから,パッとギャロップに変わるような切り替え。すべてのパートが参加する大音響でもまったく割れない音。
 ほめすぎだろうか。

● 大晦日に東京文化会館で催行される「ベートーヴェンは凄い! 全交響曲連続演奏会」を6年連続で聴いている。当然,3番も聴くことになるわけだ。
 技術だけを取りあげれば,この楽団が大晦日の「岩城宏之メモリアル・オーケストラ」を上回ることは,まさかないはずだ。
 けれども,葬送行進曲にこめられた情報量は,今回のこの演奏の方が多かったように思える。そのあたりが,つまりは聴く側の状況によるという部分なのかもしれない(そうではなくて,別の理由があるのかもしれない)。

● プログラム冊子の曲目解説に,田中さんが「皇帝」について書いている。そこからひとつだけ転載しておこう。
 私にとってこの協奏曲は,深読みすればするほど読み解きにくい。その理由は「健全な明るさ」にある。 一応,私は多くのベートーヴェンの音楽と接してきたわけで,彼の初期作品からもただならぬ「哲学」を感じてきた。それは言い換えれば「苦味」や「痛み」でもあるのだが,『皇帝』にはそれらをはねのける不思議な力が備わっている。
 というプロの演奏に対して,ろくな勉強もしていない素人観客が,ああでもないこうでもないと言うのは控えるのが礼儀というものだろう。

● ぼく的には,今回の演奏会は交響曲第3番の第2楽章が素晴らしすぎた。そのために,それ以外の記憶がおぼろになったきらいがないでもない。
 おそらく,この感想は他のお客さんとは違っているだろうとも思うのだが。

2017年4月25日火曜日

2017.04.02 東京楽友協会交響楽団 第102回定期演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● 開演は13時半。チケットは1,000円。当日券を購入。
 2015年10月の第99回定期に続いて二度目の拝聴。一度聴いて,この楽団がアマオケの中では傑出した楽団のひとつであることは承知している。だから,もう一度聴きたいと思ったわけでね。
 と思う人はぼくだけではないらしく,会場はほぼ満席となった。

● 曲目は次のとおり。指揮は田部井剛さん。
 ボロディン 歌劇「イーゴリ公」序曲
 ヤナーチェク 狂詩曲「タラス・ブーリバ」
 ショスタコーヴィチ 交響曲第10番
 玄人受けする内容というか,「タラス・ブーリバ」は,CDも含めて,ぼくは聴いたことがない。

● この楽団のホームページによれば,1961年の創設という。昭和36年だ。だいぶ古い。以来,半世紀。連綿と活動を続けてきたというそれだけで,賞賛に値する。
 いくつかの偶然にも恵まれたのだろう。そうだとしても,創設するより継続する方が困難だ。
 メンバーは頻繁に入れ替わっているはずだ。奏者の平均年齢は若いといっていい範囲に属する。

● したがって(と,つないでいいのかどうかわからぬが),演奏にも躍動感がある。高値安定に安んじていない。
 特に,コンミスがグングン引っぱっている感があって,コンミスがこうだと指揮者は楽かもしれないなと,余計なことを思った。

● ショスタコーヴィチの10番。「自分のドイツ式の綴りのイニシャルから取ったDSCH音型(Dmitrii SCHostakowitch)が重要なモチーフとして使われている」とか「カラヤンが録音した唯一のショスタコーヴィチ作品」だとか,何かと話題の多い作品だということは知っている。
 スターリンの死の直後に,8年ぶりに公表した交響曲でもある。つまり,それ以前に,ひょっとしたらだいぶ前に,できあがっていたのだろう。

● このあたりはいろいろと憶測を呼ぶところだけれども,『ショスタコーヴィチの証言』も偽書らしい。とすると,真相はわからない。
 彼の作品が彼が生きた時代から間違いなく大きな影響を受けているとしても,スターリンだのソヴィエトだのというところからいったんは切り離して,音楽それ自体を聴くことができればいい。
 ショスタコーヴィチの場合,それがなかなか以上に難しいわけだけれども。

● ということは別にして,この楽団の演奏で第10番を聴けたのは,幸せのひとつに数えていいだろう。沈鬱な前半からグァーっと上昇していく後半。その移り変わる様,というより切り替えといった方がいいのか,そこがじつに小気味いい。
 たしかな技術の裏付けに加えて,演奏することに厭いている様子が微塵もない。

● しかぁし。今朝は8時まで寝ていたのに,それでも寝たりなかったのか,何度か意識が落ちてしまった。
 そういうときには,聴きに行ってはいけないと思うんだけど,それを実行するのは難しい。すまんこってす。

2017年3月31日金曜日

2017.03.26 第6回音楽大学フェスティバル・オーケストラ

東京芸術劇場 コンサートホール

● 池袋の東京芸術劇場へ。「第6回音楽大学フェスティバル・オーケストラ」の演奏を聴くため。首都圏の9つの音楽大学の合同チーム。4月から社会に巣立つ4年生もいるらしい。
 開演は午後3時。席はSとAの2種で,S席が2,000円。チケットは,昨年11月の音楽大学オーケストラ・フェスティバル(桐朋と昭和音大が登場した回)のとき,ミューザ川崎で買っておいた。

● ぼくの席は1階のE列。前から5列目。少々以上に前すぎた。木管や金管の奏者は見えない。弦奏者の陰に隠れてしまっている。
 その代わり,ヴァイオリン奏者は,今,息を吸ったな,っていうところまでわかる。表情はむろんのこと。
 どっちがいいかっていうと,でも,すべてが見えるところがいいね。もう少し後ろか,2階席の前方。

● 曲目はドビュッシーの「海」とマーラーの6番。指揮は高関健さん。昨日,同じ曲目でミューザ川崎でも演奏している。
 開演前に高関さんのプレトークがあった。これって,客席サービスの一環として,山県交響楽団が始めたことでしたっけ。どうなんだろうな,これで客席は盛りあがるんだろうか。
 ぼく一個は,演奏会には演奏以外のものは一切ない方がいいと思っているんだけど。

● 1年間で60回程度のコンサートを聴いている。多すぎるだろ,1年に1回しか聴いてはいけない,と言われたら,たぶんこの演奏会を選ぶと思う。
 濃密な演奏だ。直接音の音圧が息苦しいほど。若いというのはそれだけで力を持つのだと思わせる。ぼくらは若さの前に敬虔でなければいけない。
 第一,マーラーの6番を生で聴ける機会はそんなにない。まして,21,2歳の溌剌ともの怖じしない演奏で聴けるなんてのは,僥倖というしかない。

● 感想は以上で尽きている。細かいことを書いても仕方がない。
 ステージ上の奏者の躍動。ステージから発せられる音の連なりがこちらを圧倒する度合い。この2点において,この演奏会は聴くに値する。いや,ぜひ聴くべきだ,聴きたい,と思わせる。

● 29年度も音楽大学オーケストラ・フェスティバルは開催される。どうにか都合をつけて,奥州街道を南下して,彼らの演奏に接したいと思うだけだ。

2017.03.20 東京アマデウス管弦楽団 第85回演奏会

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● この楽団の演奏会にお邪魔するのは,第78回,80回に次いで,3回目。
 開演は午後2時。チケットは2,000円。当日券を購入した。指揮は北原幸男さん。

● この楽団の特徴は次の3つだ。第1に男性が多い。特に弦。弦で男性が女性を圧倒しているところは,じつに希有な存在。
 第2に年齢のバラツキが大きい。これも以外に少ない。○○大学OBOGオーケストラっていうような楽団でも,年齢層を異にする楽団が複数あったりする。若い人と一緒にやりたいと思う年寄りはいても,年寄りと一緒にやりたいと考える若者はいないものだ。

● この楽団では若者も大人なのかね。年輩者が決定権を若者に委ねているのだろうか。あるいは圧倒的に巧い年寄りたちで,若者が一目も二目も置いているのか。
 同じ音楽を歩む同志なんだから年齢差なんて関係ないよ,って,それだけはないような気がするんだけどなぁ。

● 第3は,巧いということ。芸達者が揃っている。その代表として,新交響楽団や都民交響楽団などの名はしばしば聞く。ぼくはまだ聴く機会を得ていないのだが。
 東京アマデウス管弦楽団もその一角に名を連ねるのだろう。演奏を聴いていると,プロオケなんて要らないじゃんと,半ば本気で思う。

● 曲目は次のとおり。
 オットー・ニコライ 「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲
 R.シュトラウス 交響詩「死と変容」
 ブラームス 交響曲第4番 ホ短調

● 交響詩「死と変容」のはじめの方,オーボエ,フルートの軽やかなメロディーが現れ,独奏ヴァイオリンに受け継がれる。このあたりは,この曲の聴きどころでもあるんだろうけど,聴きどころを確かな聴きどころにできる力量を感じる。

● プログラム冊子の曲目解説によれば,「この交響曲はブラームスが居を定めるウィーンにおいて,もう1つ人気が出なかったそうです」とある。「古風な印象のせい,という見解も見られ」るという。
 あるいはそうかもしれない。が,当時のウィーン市民(音楽の愛好家)がブラームスに付いていけなかっただけだと単純に考えておきたい。
 当時のウィーン市民にとって,ブラームスは決して斬新でも奇妙奇天烈でもなかったろうけど,それでも創造者はフォロアーの先を行く。

● 今のぼくらもそうだ。はたして本当に創造者(作曲家)の意図するところに付いて行けているかどうか。
 時代に洗われて残った楽曲に,つまり時代の評価に,寄りかかって聴いているだけかもしれない。自らを顧みてそう思う。
 ただ,このあたりが難しいところで,あまり頭で聴きたくないっていうか,自分の意識を肥大させて,意識で曲を受けとめるというのも,聴き方としては上等とは言えないように思う。上手く言えないんだけど。

● さて,東京アマデウスが紡ぎだすブラームスの4番。指揮者のどんな要求にもお応えしますよってことなんだと思う。
 おそらくこの楽団の団員たちは北原さんにも物申す人たちだろう。もちろん,喧嘩腰ではなくて和気藹々と。
 腕に覚えがあればこそ。指揮者の要求に応えられるだけの技量があって,初めてその技量に応じた“物申す”ができるわけだろうから。

● これだけの人数がいるのに音がひとつの束になっていて,バラけないのは大したものだ。メリハリ,緩急,GO&STOP,加速の良さ。そういう言葉を思いださせる。
 かなりの性能を持つスポーツカーというかね,そういう演奏をする。

2017年3月18日土曜日

2017.03.13 宇都宮短期大学・附属高等学校音楽科 第49回卒業演奏会

栃木県総合文化センター サブホール

● 第46回47回に次いで3回目の拝聴となる。ぼくは宇短大や附属高校の生徒の父兄でもないし,縁もゆかりもない人間だけれども,この演奏会は楽しみにしているもののひとつだ。
 開演が平日の17:30なので,必ず行けるとは限らないけれども,できるだけ行くようにしている。
 
● なぜかといえば,その年齢のときにしか表現できないものがあるはずだと思うから。18歳あるいは20歳。そのときの感性。そのときの環境。そのときの生命力。そのときしかできない表現。それがあるはずだと思うから。
 30歳や40歳でもそのときにしかできない表現はあるのかもしれないけれども,ここはやはり若く可塑性に富んでいるときの演奏に接したい。

● 技術はこれからまだまだ上達するとしても,技術がすべてではない。ひょっとしたら技術を超える何かが現出するかもしれないという期待。若さが持つ魅力のひとつはそこではないか。

● 宇短大と附属高校の音楽科が,栃木県の音楽活動におけるセンターのひとつになっていることは間違いない(センターがいくつもあるのもおかしなものだけど,もうひとつは宇都宮大学教育学部の音楽教育コース&宇都宮大学管弦楽団)。
 栃響の団員にも宇短大の卒業生は多いようだ。アマオケの指導者にも卒業生が多い。人材の供給源になっている。

● 開演は午後5時半と平日にしては,異常に早い。おそらくは,聴衆として見込んでいるのは,在学生,卒業生の友人・知人といったところなのだろう。
 実際には保護者も来ている。もちろん,母親が多い。でも,たぶん,ぼくのようなまったくの部外者もいるはずだ。ぼくだけってことはない。市内のホールで何度か見かけている顔もあったから。

● 46回のときは,電子オルガンの演奏者が多かったのだけど,47回と今回はゼロ。
 プログラムを転記しておく。まず,高校。

 カバレフスキー ピアノソナタ第2番 第1楽章(ピアノ独奏)
 バラ イントロダクションとダンス(チューバ独奏)
 シューマン アレグロ ロ短調(ピアノ独奏)
 ベッリーニ 歌劇「夢遊病者の女」より“ああ,信じられない”(ソプラノ独唱)
 クレストン ソナタ(サクソフォン独唱)
 シューマン 「3つのロマンス」より第1番,第3番(ピアノ独奏)
 モーツァルト アリア“大いなる魂と高貴な心”(ソプラノ独唱)

● いつも思うことだけど,高校3年生というのは,正装すると完全なる淑女だ。近くで見れば,まだかすかに子供っぽさを表情に残しているはずだけれど,客席からステージに立つ彼女たちを見ていると,他を圧する大人の風格がある。
 トップバッターの大橋桃子さんの演奏する姿を見て,まず感じたのはそのことだ。

● いずれ菖蒲か杜若。そこをあえていうと,高校生の演奏で印象に残ったのは次の3人。サクソフォンの石橋佳子さん,ピアノの山本杏実さん,ソプラノの早川愛さん。
 石橋さんのサクソフォンはメリハリが利いている。この曲がメリハリがあった方がいい曲なのか,そこをあまり強調してはいけない曲なのか,そこのところはわからない。
 が,心地よく響いてきたのは確かで,であれば,少なくともぼくという聴衆のひとりにとっては,彼女の演奏で良かったはずなのだ。

● 山本杏実さんが演奏したのはシューマン「3つのロマンス」で,ぼくはこの曲が好きなのだと思う。だからよく聞こえるというところもあるのかもしれない。
 しかし,それだけのはずはない。実力が持つ説得力というのがある。

● 声楽を能くする人というのは,ぼくからすると異能者。つまり,自分にはない能力を持つ人たちだ。簡単に参ってしまう。
 早川さんの伸びやかな声を聴いていると,生まれ持ったものが大事で,努力でどうにかできる部分というのは,そんなにないのかなと思う。努力でどうにかできるようなものは,そもそもどうにかする必要もないものに限られるのかもしれない。

● 次に短大。
 クラーク 霧の乙女(トランペット独奏)
 ハイドン オーボエ協奏曲 第1楽章(オーボエ独奏)
 オッフェンバック 歌劇「ホフマン物語」より“森の小鳥はあこがれを歌う”(ソプラノ独唱)
 ドビュッシー 前奏曲集第2巻より第6曲,第12曲(ピアノ独奏)
 クラーク ベニスの謝肉祭(トランペット独奏)
 グラナドス 演奏会用アレグロ 嬰ハ長調(ピアノ独奏)
 イベール コンツェルティーノ・ダ・カメラ 第2楽章(サクソフォン独奏)
 ショパン ピアノソナタ第3番 第1楽章(ピアノ独奏)

● ピアノはどれも良かったと思う。佐藤佑香さんのドビュッシーも小味が利いていたし,長雅大さんのグラナドスも聴きごたえがあり,長野美帆子さんのショパンは貫禄すら感じさせた。
 青木嶺さんのオーボエも。貴重な男性奏者だからそれだけで印象に残る。

● 最後に短大卒業生の全員で合唱。女声合唱とピアノのための組曲「桜の花びらのように」という曲らしいんだけど,男性も混じっている。3人ほど。その男性諸氏はクチパクかというと,もちろんそんなことはなくて,きちんと男声も聞こえていた。
 要するに,男声が混じっても別段破綻は来さないんでありますね。

● 以前は,ヘンデルの「ハレルヤ」を歌っていて,それがこの演奏会の伝統でもあったようだ。が,それはやらなくなったのだね。
 時間は限られている。そのために,たとえばピアノ独奏をひとつ削るなんてことになると,本末転倒だろうし,「ハレルヤ」にこだわることはないとぼくも思う。どういうわけでやらなくなったのかは知らないわけだけど。

2017年3月14日火曜日

2017.03.12 室内合奏団ベルベット・ムジカ記念公演-珠玉のグラン・パルティータ

栃木県総合文化センター サブホール

● 「ベルベット・ムジカ」,初めて聞く名前だけれど,「栃木県内の管楽器奏者の有志で結成された室内合奏団」なのですね。今回は,クラリネット奏者の磯部周平さんを迎えての,お披露目の記念公演ということ。

● 開演は午後2時。チケットは2,000円(前売券)。曲目は次のとおり。
 R.シュトラウス 13管楽器のためのセレナーデ 変ホ長調
 ベートーヴェン 管楽8重奏のためのロンディーノ 変ホ長調
 磯部周平 きらきら星変奏曲Ⅲ
 モーツァルト 12の管楽器とコントラバスのためのセレナーデ 変ロ長調

● シュトラウスのこの曲が初演されたとき,シュトラウスは18歳。この分野には天才がキラ星のごとく,雲霞のごとく,存在している。
 科学者にも天才はあまたいるだろうし,ぼくなんぞが見ると,囲碁や将棋の世界には天才しかいないと映る。が,音楽の世界は天才の天才性が際だっているというか。

● セレナーデは小夜曲と訳される。が,13もの楽器を使う小夜曲って何? って感じがするね。これだけの楽器が入ると,華やかだし賑やかだ。
 小夜というイメージではなくなる。小夜という字面に引きずられすぎかなぁ。

● この合奏団の設立の中心になったのは神長秀明さんのようだ。メンバーも彼が指揮者や副指揮者を務める,鹿沼フィルや栃木フィルのメンバーが多い。
 作るは易く,継続は難し。たぶん,そういうものなのだ。このくらいの人数ならば,まとまっていけるのではないか。と,外部の人間は勝手な感想を持つんだよね。

● ベートーヴェン「管楽8重奏のためのロンディーノ 変ホ長調」はWoO 25となっている。つまり,ベートーヴェン自身は自身の作品としての番号は付けなかった。小品ゆえだろうか。
 ベートーヴェンの若い頃の作品。苦悩を通して歓喜に到れ的な重さというか,深さというか,そういうものはこの曲にはない。演奏時間が6分の曲だからということではない。“苦悩を通して歓喜に到れ”を6分で表現することは,たぶんできる。
 が,ベートーヴェンはそればかりの作曲家ではないってことなんでしょ。

● 磯部周平「きらきら星変奏曲Ⅲ」は面白かった。じつは,これが一番印象に残った。軽妙で。
 オーボエ,クラリネット,ファゴットの3人で演奏。木管三重奏とも言う。
 おそらく,今回の曲目は,吹く方も大変だろうけど,聴く側にもそれなりの鑑賞能力を求めるものなのだ。ので,なかなか付いていけないところがあった。でもって,この曲は箸休め的なというか,気分転換の役割を果たしてくれた。

● プログラム冊子の曲目紹介によれば,「きらきら星」の旋律はヨーロッパに古くから伝わるもので,モーツァルトの独創によるものではないらしい。
 「英語圏では「ABCの歌」,フランスでは「ああ,お母様」,ドイツでは「サンタクロースは明日来るよ!!」として広く歌われて」おり,「このメロディーを少し変えると「子狐コンコン」になり,「オーボエ四重奏曲の終楽章」になり,「イスラエル国家」になり,スメタナの「モルダウ」にも,サッチモの「この素晴らしき世界」にもなって,時代,国境を越えて,愛され続けています」ということ。
 なるほど。眼から鱗が3枚は落ちた。

● 最後は,モーツァルト。7つの楽章,演奏時間が50分を超える大曲。じつに「グラン・パルティータ」なんだけど,いよいよこれがセレナーデなのかという思いも。
 ぼく的には,セレナーデといえばアイネ・クライネ・ナハトムジークがその代表という思いこみがあって,なかなかその思いこみから自由になれない。

● モーツァルトが生きていた頃,こうした曲は貴族の館で演奏されたのだろう。聴くのも高等遊民というか,人の働きを掠めて喰うことが許されていた貴族たちだった。
 で,その貴族たちの,こと音楽に関する造詣の深さはただものではなかったはずだと思われる。自身で演奏もし,作曲もするというレベルのやつがかなりの数,いたに違いない。そうでなければ,この楽曲をホイホイと楽しめたはずがない。

● 最初の響きは,ベートーヴェン「管楽8重奏のためのロンディーノ」よりもベートーヴェン的というか。
 天才はそれぞれに天才で,他と交わるところはないと思う。だから,どうしてもモーツァルトとベートーヴェンの間に線を引きたくなるんだけど,そういう区分をしてしまうのはあまり高級な態度ではないようだ。すべては連続体と考えた方がいいのでしょう。

● アンコールは「魔法の笛」。日本では「魔笛」と呼ばれている。が,「魔笛」と言ってしまうとおどろおどろしさが勝って,あるいはユーモアが減じてしまって,この歌劇の内容を推測させるタイトルとしては上出来ではなくなるきらいがある。
 「魔法の笛」と直訳(?)した方がまだいくぶんいいと思うけど,“魔”を使わないですむ訳語がないかね。不思議な笛,っていうのも変だしねぇ。

2017年3月11日土曜日

2017.03.09 間奏55:音楽は好きなんだけど

● クラシック音楽のコンサートを聴きに行くことが,しごく大げさにいえば,ぼくの生きる甲斐になっている。その感想を文章に置き換えてブログにすることも含めて。
 だが,しかし。この文章に置き換える作業が問題だ。

● 自分でもはっきり自覚しているのだが,演奏そのものに言及することは,以前にもまして少なくなっている。周辺のことがらをウダウダと書いている。
 なぜかといえば,その方が楽だから。演奏について語ることを億劫がって(あるいは,怖がって)“周辺”に逃げているのだ。

● ぼくのブログを読んでくれてる人の多くは,ステージに立って演奏している人たちのようだ(ありがたくもあり,光栄でもある)。
 とすれば,一番読みたいのは自分(たち)の演奏に対する評価だろう。もっとピントを絞った言い方をすれば,演奏に対するほめ言葉だ。的確にほめてほしいと思っているはずだ。

● それが少なくなっている。このあたりを心して書かなくてはいけない。
 “周辺”については,ぼくのにわか仕込みの知識など,演奏者にとっては常識にすぎない。彼らの音楽知識は,ぼくなぞよりはるかに上位にある。

● 虚心に演奏を聴いて,その結果を自分の言葉で語ること。外部情報を遮断して,自分の内部に意識を集中すること。箔を付けようとして,ネットで他の人の感想をチェックしたりしないこと。
 そこから沁みてくる言葉を捉えて,たとえそれが幼稚であろうと貧弱であろうと,妙な化粧を施さず,そのまま差しだす勇気を持つこと。

● それ以前に,たとえば寝不足の状態でライブを聴くなんてことのないようにすること。十全な体調で聴けるよう生活を整えること。
 そして可能ならば,ライヴ以外の音楽体験を充実させること。CDを聴くこと。作曲家の生涯や彼が生きた時代背景,音楽史における位置づけ等について,最小限の心得は持っておくようにすること。

2017年3月8日水曜日

2017.03.05 那須野が原ハーモニーホール合唱団 第11回定期演奏会

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 開催は午後2時。チケットは200円。タダではなくて,200円でチケットを売るのがいいところだ。今回の演しものはハイドン「戦時のミサ」。
 それだけではないので,以下に曲目をあげておく。

 パレストリーナ 水を求める鹿のように
 ビクトリア アヴェ・マリア
 松下 耕(谷川俊太郎 作詞) 信じる
 新実徳英(岩間芳樹 作詞) 聞こえる
 猪間道明 編曲 TOKYO物語
 ハイドン 戦時のミサ

● つまらない理由で,今回は遅刻してしまった。時間にすれば15分ほど。残念でもあり,演奏する側に対しては申しわけなくもあり。
 ぼくが座席に着いたときには,「信じる」までは終わっており,「聞こえる」からの拝聴とあいなった。

● ぼくだけの都合でいえば,聴きたかったのはハイドン「戦時のミサ」だから,損失はほとんどなかったと言っていいんだけどね。
 どうやっても遅刻だとわかったときは,行くのをやめようかと思ったんだけど,諦めないで行ってよかったと思う。

● 声楽が入るミサ曲などの宗教音楽っていうのは,CDで聴くことがあまりない。CDは持っているんだけども,ほぼ聴かない。こういうものは生で聴ける機会をとらえていかないと。
 といって,管弦楽+合唱団+ソリスト,と大がかりな編成になるから,地方だとその機会も多くはない。ゆえに,今回のような演奏会は貴重。

● で,その「戦時のミサ」。
 指揮は片岡真理さん。ソリストは袴塚愛音さん(ソプラノ),谷地畝晶子さん(アルト),藤井雄介さん(テノール),村林徹也さん(バリトン)。
 管弦楽はモーツァルト合奏団。あたりまえだけれども,木管,金管,ティンパニは,賛助でまかなった。

● 「戦時のミサ」を聴いた感想を申せば,ミサ曲なのにあまり宗教臭を感じなかった。世俗の曲という印象を受けた。
 プログラム冊子の曲目解説によれば,ハイドンがこの曲を作った1796年は,ナポレオン軍がウィーンを制圧し,北イタリアに進軍していた。その「フランスの脅威に対する怒りの表明といえる」ということだ。
 なるほど,それで,と理解すればいいのかもしれない。理路整然としていて腑に落ちる。

● ただ,ぼくは理路整然としているものをあまり信用しないところがあって,それ以外に何かあったのじゃないかと考えたくなる。が,考えるヨスガは何も持っていないので,妄想を逞しくするという域を出ることはない。
 とにかく,世俗臭のするミサ曲という印象だ。

● だものだから,ぼくとしては楽に聴くことができた。たとえばバッハの「マタイ受難曲」を聴かなければならないとなると,たとえCDであってもそれ相応の覚悟を要する。
 日本人のぼくらがキリストの受難曲を聴くとなれば,どうしたってそういうことになる。わりと重苦しい行為になるという意味。
 が,ハイドンのこのミサ曲はそういった重苦しさを感じずに聴くことができる。

● この合唱団の定演を聴くのは,これが二度目だ。一昨年の第9回を聴いている。フォーレの「レクイエム」だった。そのとき袴塚さんのソプラノを初めて聴いたのだった。
 で,今回もまた袴塚さんのソプラノを聴くことができた。満足だ。他の3人もたいした歌い手で,ソリスト陣には1ミリの文句もない。

● 合唱はいっそうそうだ。この合唱団の活動は年1回の定演だけではないと思うけれど,でもこの定演が最も高い山になっているはずだ。そこに向けて1年間練習してきた。
 細かい部分を言えば,それは色々ある。抑えなければいけないところでやや走りすぎてしまうとか,逆に冒険を避けるあまり声を出し惜しんでいるとか。
 しかし,そうした細かいところはどうでもいいような気がする。それは教授陣にとっての課題ではあっても,客席側がどうこういう話ではない。
 80歳代の団員もいるらしい。声に恵まれた人たちばかりではないだろう。それでよい。ここまでできればよしとする。