2016年9月26日月曜日

2016.09.25 グローリア アンサンブル&クワイヤー 第24回演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● 開演は午後2時。チケットは2,000円。当日券を購入。
 曲目は次のとおり。指揮は片岡真理さん。
 ブラームス 運命の歌
 ドボルザーク スターバト・マーテル

● グローリア アンサンブル&クワイヤーの年1回の演奏会を聴くのは,ぼく一個の定例行事になった感がある。これだけ大がかりな装置が必要な曲を取りあげてくれるのは,栃木県ではここしかない。
 次回は3大レクイエムのうちの2つ,モーツァルトとフォーレをやるようだ。しかも,ピアノ伴奏の簡略版ではなく,管弦楽が入るはずだ。呆れるほど野心的ではないか。
 それを2,000円で聴けるとなれば,やはり来年も出かけていくだろう。

● グローリアが取りあげるのは,ミサ曲やオラトリオなど,キリスト教が前面に出る楽曲ばかりだ。
 どうしても,西洋におけるキリスト教の生態を知らないと,ヨーロッパ人が楽しむように,これらの楽曲を楽しむことはできないだろうと考えてしまう。
 別にヨーロッパ人が楽しむように楽しまなくたっていいわけだけどさ。ぼくらはぼくらなりの楽しみ方で楽しめばいいんだけど。

● で,以下に,「スターバト・マーテル」を聴きながら,脳内に浮かんできた妄想を記しておくことにする。
 縁起論,アビダルマ哲学,中観,唯識といった膨大かつ精緻な(瑣末ともいうが)哲学,思想を含む仏教に比べれば,キリスト教神学なんて底が浅くて学ぶ気にもならない,と感じる向きはわりとあるのではないか。

● その底の浅いキリスト教がヨーロッパのみならず,中南米やアフリカにも広まったのは,武力を背景にした布教の結果ではあるけれども,じつにこの底の浅さがあればこそだった。
 それらの地域でも地場の宗教はあったはずだ。そこにキリスト教を移植することができたのは,底が浅いからわかりやすかったうえに,加工しやすいという事情があった。それゆえ,地場宗教との融合もスムーズに進んだのではあるまいか。

● キリスト教を結局は受け入れなかった日本のような国は,むしろ例外だろう。日本がなぜキリスト教を容れなかったといえば,キリスト教にある種の胡散臭さを感じとったからだとしか思えない。当時のイエズス会の牧師はけっこういかがわしかったんだろうな。
 ひょっとすると,日本人の民度が高くて,最初から底の浅さを見て取ったのかもしれない。

● 今回のドボルザーク「スターバト・マーテル」をはじめ,数多くの珠玉のような宗教楽曲を生むことができたのも,キリスト教神学の底が浅かったからだ。
 ほんとに深いものは言語化できない(かもしれない)。ヨーロッパでも宗教音楽においては言語が必須だ。言葉でもって神を讃えるのだ。合唱,独唱がない器楽だけの宗教曲というのは,あるのかもしれないけれども,その存在をぼくは知らない。バッハの多くの曲にその傾向を見て取ることはできるかもしれないけれど。
 である以上,宗教曲で表現できる深さには限度がある。表現というのは厄介なものだ。

● 底が浅いから,演劇化も可能になった。オラトリオにも演劇の要素はある。
 あるいは,演劇化を前提にすると,底を浅くせざるを得ないという事情が逆にあるのかもしれない。
 演劇でもある一点を深く掘り下げることはできると思う。そのことによって,全体を見る視点を揺り動かすという方法があるのかもしれない。どうなんだろ。

● ぼくには欧米人の友人がいるわけではないから,あくまで想像で申しあげるんだけど,彼らにはエゴの追求を躊躇しないという印象がある。個が膨大な富を築いたり,一が他を支配(収奪)することに,障壁がないというか。
 日本に奴隷制があったのかどうか知らないが,あったとしてもヨーロッパの農奴とはかなり違ったものだったのではないか。

● そうした人が,日曜日に教会に行って懺悔すれば,エゴ追求も是とされ,敬虔なクリスチャンと看做されるという仕組みは,究極の御都合主義でもあるだろう。
 すべての宗教は御都合主義の別名であるから,これを言ってしまうと話が終わってしまうのではあるけれど,それにしてもと思う。

● この「スターバト・マーテル」にしても,「私のいのちの尽きる日まで,あなたと共に泣き,十字架のキリストの苦しみを共に味わわせ給え」という。しかし,「じゃぁ,本当に味わわせてやろうか」とは,神は言わないという前提がある。
 つまり,これは本心ではない。こう言えば,救いがあるのだという決まり事にしたがっている。「苦しみを共に味わわせ給え」と言ったあとは,「処女マリアよ,あなたの御力で,最後の審判の日に,私が地獄の火に苛まれ,炎に焼かれることから守り給え」となるのだから,これはもう御都合主義以外の何物でもない。
 欧米の聴衆はこれでカタルシスを覚えて,ニコニコしながら帰途につくのだろう。

● もの心つく前に洗礼を受けさせられた遠藤周作が,その多くの作品において葛藤したのも,キリスト教神学の底の浅さをどう相克しようか,というところだったのではないだろうか。
 その成功例のひとつが『沈黙』だといえる。踏絵のなかのイエスが「踏むがよい。お前のその足の痛みを,私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生まれ,十字架を背負ったのだから」と語りかけるところは圧巻だけれど,これ,サッサと踏んでしまえばそれまでの話だ。それをここまでの作品に仕上げるのは,遠藤周作の力業だ。作家の才能だ。
 最初からキリスト教神学が深ければ,こういう作品は生まれなかったに違いない。

● 以上で,妄想は終わる。
 「スターバト・マーテル」のソリストは,藤崎美苗さん(ソプラノ),布施奈緒子さん(アルト),中嶋克彦さん(テノール),加耒徹さん(バス)の4人。布施さんのアルトがずっしりと響いてきた。
 合唱団は前半と後半で立ち位置を変えてきた。ソプラノ-アルト-テノール-バスから,ソプラノ-テノール-バス-アルトに。どういう理由によるものか,ぼくにはわからなかったけど。

● グローリア アンサンブル&クワイヤーが栃木県にあることの意味って,かなり大きいなと,あらためて思った。文句をつけようと思えば,それはいくつかはつけられるだろう。管弦楽に少し馴れがあったような気がした,とか。
 しかし,今回にせよ,昨年のハイドン「天地創造」にせよ,これだけの大曲を(東京ではなくて)宇都宮で聴くことができるのは,それこそ神の恩寵かと思われる。

0 件のコメント:

コメントを投稿