2016年5月31日火曜日

2016.05.30 ノースダコタ大学レッドリヴァートリオ&鹿沼高等学校音楽部管弦楽団 Joint Concert

鹿沼市民文化センター 小ホール

● 開演は午後6時半。入場無料。
 なぜ,ノースダコタ大学の名前が鹿沼に登場するのかというと,鹿沼とアメリカ合衆国グランドフォークス市が友好交流都市の協定を結んでいて,ノースダコタ大学はそのグランドフォークス市にあるから,であるらしい。

● だとしても,なぜ「レッドリヴァートリオ」なのかというのはわからない。つまり,交流の方法は色々あるはずで,その中で今回のようなジョイントコンサートはすでに何度か開催されているようなのだ。
 今回は鹿沼高校とのジョイントだけれども,過去には東中学校とやっていたりする。

● どうも鹿沼は音楽少年,音楽少女を多く輩出しているようで,そこが肝になっている。それあればこそ,ノースダコタ大学ともさほどに遜色のないジョイントを組むことができる。
 エルベ音楽院がこの地にあることが大きいのではないかと想像しているのだが,そうではない別の理由があるのかもしれない。

● 「レッドリヴァートリオ」は「ノースダコタ大学音楽部の学生で構成された室内楽グループ」。今回のメンバーは,キース・ティーペン(ピアノ),ヴィニシウス・サンタナ(ヴァイオリン),フェルナンドヴァルガス(チェロ)の男性3人。
 このグループのみで演奏したのは次の3曲。
 ピアソラ ブエノスアイレスの夏
 ラフマニノフ チェロとピアノのためのソナタ 第3楽章
 フランク ヴァイオリンとピアノのためのソナタ 第1,2楽章

● ラフマニノフなんて,充分以上に優美で繊細。優美はともかく,繊細の元になるのはデリカシーだろう。
 デリカシーというのは男性の属性だと思っている。男性が優美や繊細を表現できないはずがない。というより,男性に向いているはずだ。

● デリカシーとは,畢竟,快不快(で動く)原則に例外を加えることのできる知性あるいは感性のことだろう。快不快で動くのは自然だから,デリカシーはその自然に反するわけだ。
 したがって,本能のままに動く人はデリカシーとは無縁。最近はやりの言葉を使えば,メタ認知がきちんとできることがデリカシーを発揮する基盤になる。
 この分野は,女性よりも男性が得手とするはずだろう。かなりの異論があるかもしれないけれど。

● このあとはシモーナ・バルブさん(チェロ)も加わって,ピアソラの「忘却」「天使の死」。ピアソラというと「リベルタンゴ」しか知らない。CDは持っているんだから,聴けばいいんだけどね。
 この2曲は「リベルタンゴ」とはだいぶ毛並みを異にする曲。ピアソラに関する視界が1センチくらい広がった気がする。

● このあとはさらに杉浦有朗さん(ピアノ)が登場。キース・ティーペン氏と組んで,ラフマニノフの「2台のピアノのための組曲」から「タランテラ」。
 無料の演奏会でこういうのを聴けるとは思っていなかった。CDではこの迫力を伝えられるかどうか。聴く人が聴けばわかるんだろうけど,ぼくの耳だとライヴとCDでは大差が生じてしまうだろう。

● ここから鹿沼高校音楽部管弦楽団が登場。サン・サーンス「動物の謝肉祭」から6曲を。その中に「白鳥」も入っていた。チェロの独奏。そのチェロはシモーナさんだったか。
 さだまさしの「セロ弾きのゴーシュ」を思いだした。「白鳥」が使われているんだよね。この曲が収録されているLP「風見鶏」は,ぼくが買ったほとんど唯一のLPではなかったか。
 ちなみに,今を去ること39年前に発表されたものだ。今,ステージ上にいる高校生たちは影も形もなかった。23歳で彼らを生んでいるとすれば,彼らの親もまだこの世に生まれていない。

● 最後はムソルグスキーの「禿山の一夜」。管弦楽の真価が発揮される。コンマスはヴィニシウス・サンタナ氏が務めたが,その隣の女子生徒がバリバリに巧い。
 鹿沼高校音楽部管弦楽団は毎年,定期演奏会も開催していて,ぼくも2009年の第14回定演は聴いている。のだが,それっきりになっている。あまりピンと来なかったのだと思う。
 が,当時,これだけの演奏を聴いて,それでもピンと来なかったのだとすれば,ぼくの耳はよっぽどどうかしていたね。どうなんだろう,当時よりも水準が上がっているんだろうか。

● 今年の定演は8月7日。この演奏を聴けるのであれば,猛暑の中を鹿沼市民文化センターまで自分を運んでくるだけの価値はある(と思った)。

● 唯一残念だったのは客席の一部。二人の女児を連れた母親がいた。子どもはジッとしていられず,後ろ向きに座ってみたり。
 母親は母親で不審な(?)動きを示す。どうやらこっそりとビデオカメラを回しているらしいのだが,どうせ回すなら堂々とやればいい。こっそりやるとかえって目立つ。
 まぁ,しかし,高校や中学校の催しになると,こういうのは所与の前提となる。さよう心得よ,ということだね。

2016.05.29 間奏47:このブログが楽団のサイトで紹介された

● 4月に聴いた「PROJECT Bオーケストラ」第4回演奏会について,このブログで感想を書いた(あるいは,垂れ流した)。
 5月16日に,突然,そのエントリーに大量の(このブログとしては)PVがつき始めた。何が起きたのかと思った。

● この楽団のサイトに行ってみたら,ぼくのエントリーが紹介されていた。
 演奏会「PROJECT B 2016」を聞いてくださった方がブログに感想を書いてくださっているので紹介します。かなり高い評価をいただいています。
 いや,こちらこそ,こんな駄文を取りあげてくださって,恐縮千万だ。今までこんな扱いを受けたことはなかったので。

● ともあれ。ここからわかることが2つある。
 1 演奏する側は聴衆の感想を知りたいと切に願っている。
 2 なのに,その感想が届かない。

● 聴衆にアンケートをかけることは普通に行われている。
 おまえは男か女か,年齢はいかほどか,この演奏会を何で知ったか,この演奏会に来るのは何回目か,といったことを訊ねてくる。自由記述で感想を求めてもいる。
 自由記述の欄を埋めてくれるお客さんは,楽団にとっては得がたいありがたいお客であろうと思う。が,基本的に当たり障りのないことを書くのがマナーだと,多くの人は心得ているだろう。主催者に失礼があってはならない。それを優先する。

● となると,アンケートから何がわかるかというと,じつは何もわからないというのが実態ではないかと思う。
 アンケートでは情報飢餓は満たされない。

● 率直な感想を聞きたいと願っている。その気持ちに嘘はないとしても,ミスを指摘されたり,まずかったところを率直にけなされたりするのは,たぶん歓迎しないだろう。
 できればほめてもらいたい。一番いいのは,率直に意見を吐露しているふうでありながら,さりげなくほめているというものだ。そうであろうと推測する。
 なぜなら,そのほうがエネルギーになるからだ。

● ミスなど指摘してもらっても仕方がない。やった本人が一番よくわかっているからだ。
 わかっているものをわざわざ指摘してもらう必要はない。ミスを指摘することは何の情報も付加しない。

● 自分の背中を押してくれるもの。この道をさらに進んでいこうと思わせてくれるもの。
 それは,たぶん,ほめてもらうことの中にある。ピントはずれではない,ほめ言葉の中にある。

● そこが,このようなブログが存在する場所にもなるだろう。ステージに立つ側の情報飢餓を埋めること。可能であれば背中を押すこと。
 せっかく書くのだから,何らかの情報を付加するものでありたい。できるかどうかは別として,そうありたいと思い続けることができなくなったら,そこが年貢の納め時なのだと心得るべきだ。

● にしても。ぼくなんぞのブログをサイトで紹介してくれているとは。ありがたいことだ。
 それがまたこちらの励みになる。コンサートを聴き続けて,それをブログ化することのインセンティブになる。
 つまり,背中を押してもらえる。こういうのは相身互いだね。

2016年5月23日月曜日

2016.05.22 宇都宮シンフォニーオーケストラ 第15回定期演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● 宇都宮シンフォニーオーケストラの定演はこれが15回目。もっとやっているように思えるんだけど,年に2回開く演奏会のうち,1回はベートーヴェン・チクルスだったり秋季演奏会だったりする。定期演奏会と銘打って開催するのは,この時期の1回だけなんだな。

● 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を購入して,2階左翼席の最右翼に陣取った。実質1階席になりますかね。総文センターだとここが自分の定席だと勝手に決めている。
 ちなみに,いつだったか,指定席のコンサートでここを取ったことがあるんだけど,SではなくてA席だった。

● 今回のプログラムは次のとおり。指揮は石川和紀さん。
 ボロディン 歌劇「イーゴリ公」より「だったん人の踊り」
 チャイコフスキー 序曲「1812年」
 チャイコフスキー 交響曲第4番 ヘ短調

● “だったん”とは韃靼のこと。韃靼とはざっくりとモンゴルのことだと思っていた。それでいいんだろうけど,この「だったん人の踊り」からはモンゴル的な響きは特に感じないですよね。
 おまえの言うモンゴル的な響きとはなんぞやといわれると困るんだけどさ。まさかホーミーのあのしわがれたような響きのことだ,と答えるわけにもいかないし。

● この歌劇は,「キエフ大公国の公,イーゴリ・スヴャトスラヴィチによる,遊牧民族ポロヴェツ人(韃靼人)に対する遠征を描いた」ものらしい。
 ここでいうポロヴェツ人とはキプチャク人のことで,であればモンゴルが建国したキプチャク汗国のことかとなるわけだ。
 が,初期の支配層はモンゴル人だったとしても,その領域の文化の基層までモンゴル色に染まるなんてことはありえないわけでね。

● で,この「踊り」はいたって東欧的なものだというのが,ぼくの受けとめ方。ま,そんなのはどうでもいいかなとも思うんですけどね。

● 序曲「1812年」を生で聴くのは,これが4回目。気宇壮大だけれども,わりと投げやりな感じも受ける。
 チャイコフスキーが嫌々ながら作曲したはずはないと思うけど,さほどに力をこめたようにも思えない。

● 出だしのヴィオラとチェロが奏でる,この世のものとは思えない典雅な調べ。ひょっとすると,ここのところがこの曲の一番の聴きどころではないか。「神よ汝の民を救い」という正教会の聖歌らしいんだけど。
 これを木管が引き継ぐあたりから,緊張感が混じりこんでくる。その緊張感がだんだん大きくなる。風雲急を告げる。
 「ラ・マルセイエーズ」の旋律も登場し,それがやがて消え入るように終わる。わが軍,勝てり。このあたり,あざといといえばあざといよなぁ。

● メインが第4番。5番でも6番でもなく,4番。
 といっても,この曲の演奏機会が少ないということもない。直近では,2013年に昭和音楽大学管弦楽団の演奏で聴いているし,その1年前にも宇都宮市文化会館で東京フィルハーモニー交響楽団の演奏を聴いている。2010年には栃響も取りあげている。

● 同じ旋律をオーボエが奏で,ファゴットに引き継ぐ。さらに弦が引き継いで演奏する。ベートーヴェンチック。
 この手法は,ぼくのような聴き手としての初心者(けっこう聴いていると思うんだけど,聴き手として一皮むけるってところになかなか到達できない。もどかしさを感じる)に対しても効果的にアピールする。

● もちろん,演奏がダメならダメだけど。どこかでこけちゃうと,ハイそれまでよ,ってことになる。
 この楽団は,もちろんそんなことはない。っていうか,たいていのアマチュアオーケストラはここでこけることはない。
 そんなの普通でしょ,って言われるのかもしれないんだけど,すごいことじゃないのか,これ。

● アマチュアのオーケストラ活動が日本ほど盛んな国は,世界中さがしてもひとつもない。これはもう常識になっているだろう。
 であればこそ,栃木のザイに居住していても,生のオーケストラを聴く機会はふんだんにある。正直,聴ききれない。県南にはぜんぜん行けていないし。
 そのうえで,個々の演奏レベルがかなり高いように思われる。このあたりは,日本の凄みのひとつに数えていいんじゃないかと思う。よその国のことは知らないんだけどさ。

● ところで。今回のコンミスは高木早紀さん。ずっとこの楽団のコンミスを続けてくれると,聴きに行く楽しみがひとつ増えることになるんだけど,どうもそういうことではないようだ。

2016.05.21 西尾真実ピアノ・リサイタル

栃木県総合文化センター サブホール

● 開演は午後6時半。チケット(前売券)は2,000円。4年前にも同じこのホールで西尾さんのリサイタルがあった。そのときのチケットは1,000円だった。倍の料金を取れるまでに大きくなりましたよ,ということですかね。
 4年前は,平日の夜だったんだけど,お客さんの入りは3割程度だった。今回は客席の7~8割は埋まっていた。土曜日だったからってのがあるにしても,かなりのもの。

● プログラムは次のとおり。
 スカルラッティ 3つのソナタ(K466,K159,K380)
 シューベルト 3つのピアノのための曲
 バッハ(ブゾーニ編) シャコンヌ
 スクリャービン 左手のための前奏曲と夜想曲
 スクリャービン 2つの詩曲
 スクリャービン ピアノソナタ第4番

● 前回はバッハ,ハイドン,ショパン,リスト,チャイコフスキー,スクリャービンだった。そのときは「彼女自身は本当はショパンが一番好きなんじゃないのかなぁ」と感じたんだけど,今回,ショパンはなし。
 調子に乗っていらんことを言うものじゃないね。

● スッキリした演奏だった。夾雑物がなくなってスッキリしたという感じ。
 ただ,このスッキリしたという感想は,彼女の外見の変化に引きずられての結果かもしれなくてね。髪型を少し変えていて,それが顔全体にスッキリ感を与えていたっぽい。
 その結果として,演奏もそういうふうに聞こえたというところが,ひょっとしたらあるかもしれない。

● というようなことを書くと,何を言っとるんだ,おまえは,と叱られると思うんだけど,これは案外,看過できない問題を含んでいるんじゃないかとも思うんですよね。
 外見に引きずられるっていうのは,ぼくに限らず,聴衆にはわりとありがちなんじゃないかと思うのでね。普通のクラシックファンの平均的な耳の感度というのは,その程度のものじゃないのかな,と。

● ステージに立つ以上,外見を等閑に付すわけにはいかない。聴衆に見られるんだから,それは当然なんだけれども,それがじつは聴衆の耳にも影響を与える。
 もしそうなら,自分が客席からどう見えるかについては,細心のうえにも細心であるべし,ということになる。聴衆は評価者でもあるわけだから。

● その評価って,かけ算九九もろくにできない者が微積分の答案を採点するようなものではあるんだけど,そうであっても最終的な評価者は聴衆しかいない。お金を出してチケットを買うのは聴衆だもん。
 その聴衆の耳(評価眼)を外見で動かすことができるんだったら,それを目一杯利用するのは,ステージに立つ者のむしろ義務であるかもしれない。
 
● 舞台捌きに慣れたようでもある。4年前に比べると客席を見る余裕もあったし,所作も柔らかくなっていたし,袖から登場するときや逆に退場していくときの歩き方にしても,自分のスタイルができたようでもある。
 たぶん,オーケストラとの共演が,そのあたりの呼吸を会得させてくれたのかなぁと思うんだけど,余計な推測だね。

● 以上は徒し事。演奏じたいがたしかに変わっていたと思う。コンクールに優勝するなど,成果を出せた満足感のゆえか。あるいは音楽活動以外の面で大きな変化があってのことなのか。そのあたりはもちろんわからないけれども,吹っ切れた感,視界良好感といったものを発散していたと感じた。
 それをオーラと言ってもいいのだとすれば,オーラが大きくなった。さらに言い換えれば,存在感が大きくなった。

● バッハの「シャコンヌ」には圧倒される。ブゾーニの功績に帰せられるんだろうけど,ピアノの持つ多重的,多層的な表現能力を存分に発揮させて,立体感と奥行きを持たせている。
 ムソルグスキーの「展覧会の絵」を管弦楽版に編曲したラヴェルは,その編曲で天才の名を欲しいままにしている(していない?)。ブゾーニも同じですか。

● このあとに,スクリャービンの「左手のための前奏曲と夜想曲」。その対比というか落差の妙。

● というわけで,充実のうちに終了。
 彼女のピアノはまたいずれ地元で聴く機会があるに違いない。栃木県内のオーケストラにソリストとして招聘されることもあるだろうし。

2016年5月17日火曜日

2016.05.15 宇都宮ジュニアオーケストラ20周年記念演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● 開演は午後2時。入場無料。曲目は次のとおり。指揮は水越久夫さん。
 シベリウス 交響詩「フィンランディア」
 ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番 ハ短調
 チャイコフスキー 交響曲第5番 ホ短調

● 「フィンランディア」は4年前の第16回定期でも演奏された。けっこう危うい演奏だったと記憶している。
 今回は危うさはまったくなかった。安定していた。滑らかだった。あのときはぎこちなさそうに弓を動かしている子がいた。今回はそういう子はいなかった。
 この4年間で格段の進歩を遂げたのか。

● ジュニアオケなんだから,危うかったり荒削りだったりするのは,想定の範囲内。当然,そういうものだと思っている。
 ジュニアに完成度の高さしか求めない人がもしいるとすれば,そいつは釣り竿をかついで山に登る人と同断だと言っていいだろう。

● 何が言いたいのかというと,今回の演奏はその完成度の高さが見られたということ。それをジュニアらしからぬと思ってしまったってことなんですけどね。
 目隠しをして客席に座らされて,演奏しているのは栃木県交響楽団だよと言われたら,たぶん信じたと思う。
 つまり,大人の演奏だよね,これは。大人の演奏は大人の楽団で聴けばいいのであって,ジュニアがそこを目指すのは,ちょっと違うような気がする。目指したわけではないのかもしれないけれど。

● ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。ピアノは大島浩美さん。ご自身もジュニアオケでヴァイオリンを演奏していた時期がおありになるようだ。
 4月の宇女高OGオーケストラ演奏会でも,同じラフマニノフの2番を演奏している。

● オーボエのソロが登場したときに,オヤッと思った。山本楓さんっぽい人だ。楽器の角度のつけ方とか,よく似ている。このまま行けば山本2世として大成するんじゃないかと思った。
 でも・・・・・・似すぎている。って,本人じゃないか。いいのか,こういうところに出てて(いいに決まっているわけだが)。
 このあと,フルート,クラリネットのソロも登場した。それぞれ巧い。呆れるほどに。
 って,これ,ジュニアじゃねーじゃん。いや,いずれも若くて美しいお嬢さん方なんだけど,ジュニアはもう卒業しているはず。

● ああ,そうか。今回は20周年記念の演奏会だった。OB・OGが大勢登場しているようなのだ。
 そういうことか。今回はちょっと特別かもしれない。しっとりと落ちついた大人の演奏になっていたのには,そういう理由があった。
 ただ,少なくない数のジュニアもいるわけで,今回のジュニアは例年以上の選抜をくぐり抜けてきたメンバーということになるのだろうか。

● ラフマニノフの素描が見えるようなというか,ラフマニノフが描いた設計図を見せられたような,そういう印象。曲の骨格が浮きでて見えるような演奏だった(と感じた)。
 おそらくだけれども,大島さんも,宇女高OGオーケストラのときより,今回のほうが弾いた感があったのではないかと推測する。こんな推測,大きなお世話であろうけどね。

● チャイコフスキーの5番もこの調子で一気呵成。うぅん,やはりこれは大人の演奏だと思った。成熟すら感じさせる。ほんのりと色気も載っている。
 スタミナもある。ジュニアは瞬発力はあっても,このスタミナにやや課題を残す年代だというのは,ぼくの思いこみにすぎないのかもしれないけれど。

● ティンパニのジュニア男子に注目。叩く前にちょっとタメを作るような彼のスタイルが,この曲には合っているような気がした。
 それに格好いいもんね。モテるんだろうな。

2016年5月10日火曜日

2016.05.07 明治大学OB交響楽団 第20回記念定期演奏会

杉並公会堂 大ホール

● 今日,3つめの管弦楽のコンサート。ダブルヘッダーは今までに何度か経験しているけれども,トリプルは初めてだ。
 ダブルやトリプルってどうなのよと問われれば,あまりやらないほうがいいと,とりあえずは回答したい。なぜかといえば,印象が散ってしまうから。

● ぼくらは例外なく忙しく毎日を過ごしている。短時日のうちに印象はどんどん薄くなり,ついには雲散霧消してしまう。例外はあるかもしれないけれど,たいていの場合はそうだ。
 つまり,ダブルやトリプルじゃなくてもそうなのだ。だったら,ダブルでもいいじゃんってことになりそうだ。
 それでも,可能ならやらないほうがいいと思う。記憶が新鮮な間に次の記憶を上書き保存することになってしまうんでね。わざわざ記憶を劣化させるようなものだから。

● とはいっても,せっかく栃木の在から出かけていくのだ。移動するだけで時間もお金もかかるのだ。
 だったら,ダブルでもトリプルでも,できるだけ多くを刈り取りたい。それに,どうせ他にやることもないんだし。
 というわけなのだった。

● 開演は午後5時半。チケットは1,000円。当日券を購入。曲目は次のとおり。指揮は高橋隆元さん。
 ワーグナー 楽劇「ニュールンベルクのマイスタージンガー」
 ワーグナー 「神々の黄昏」~夜明けとジークフリートのラインへの旅
 ブルックナー 交響曲第7番

● 明治大学OB交響楽団といっても,OBばかりではないようだ。OGもいる。数からいえばOGのほうがやや多いくらい。
 いや,そういうことじゃない。明治大学のOBではない人たちもけっこういるようなのだ。

● 学生時代,彼らの多くは部活第一,アルバイト第二,学業第三,で過ごしてきたのだろうと思う。勉強は二の次,三の次。
 が,卒業して社会人になれば部活はなくなるわけだし,仕事を二の次にするわけにはなかなかいかないだろう(そのなかなかいかないことをいかせている猛者も,いるにはいるけどね。ぼくも一人知ってるよ)。

● するとどうなるかというと,学生時代に比べると腕が落ちる。練習時間が大幅に減るんだから。社会人になってからのいろんな経験が演奏に深みをもたらすことがある? そんなのはまったく現実的ではない。
 経験を演奏の深みに転換できるなんてのは,一部の才能溢れる人に限ってのことだろう。

● 卒業してからもなお楽器を続けている人の多くは,ここにもどかしさを感じるのではあるまいか。
 色々と工夫をこらして,それに抗っている人も多いに違いない。

● さて,このOB楽団,奏者の年齢はまちまちだ。まちまちだけれども,女性陣の平均年齢はかなり若い。
 女性の場合,結婚すれば妊娠,出産,子育てが待ちかまえている。その渦中にあって,ステージに立てる人はまずいないだろう。
 子育てが一段落したら復帰するといっても,言うほど簡単だとは思えない。

● その点,男性の場合は結婚後も続けやすい。妊娠や出産はしたくてもできないわけだしね。
 とはいっても,会社で中堅になり,課長や部長になると,仕事が生活の大半を占めることになる。仕事が面白くなるというのは,ぼくはついに経験せずに終わりそうだけれども,そういうこともあるのかもしれない。
 したがって,男性も女性ほどではないけれど,主力は若手だ。

● しかし,そうした諸々を超えて,ステージから発せられる音楽は素晴らしかった。単純にそう思った。
 生で聴くというときに,CDではなくて生といえば,ホールで聴いていることそれ自体を指すだろう。が,音が生きていて,その生きた音を聴く,そのことを生で聴くというのなら,まさに今,生で聴いている。

● 黄金週間の終盤にこうした演奏会を催すからには,黄金週間のほぼすべてを今日の準備に振り向けてきたはずだ。
 そうした人たちのおかげで,こちらはダブルだトリプルだとオダをあげながらも,ワーグナーを聴き,ブルックナーを聴くことができるわけだ。“生”で。

● ワーグナーの「ニーベルングの指環」のすべて(ラインの黄金,ワルキューレ,ジークフリート,神々の黄昏)をそれこそ生の舞台で観たいというのは,ぼくの望みのひとつではあるけれど,半ば以上は諦めている。
 東京でも4部作すべてを公演するのは数年に一度かもっと少ないか(今,新国劇で上演中?)。その機会を捉えることができたとしても,チケット代が問題だ。
 一気にではなく(できれば一気に観たいのだが),何年もかけてひとつずつ観ていくというのが現実的だろう。

● CDは持っているんだけど,聴いたことはない。オペラだけは歌や台詞の意味がわからないと,ストーリーを追っていけない。
 CDはすでにそれができるようになっている人に向けたもの。上級者向けだ。
 となると,DVDってことになる。一度だけ,DVDを観たことがある。字幕が表示されるんだからありがたい。
 問題は,しかし,ある。ぼくの視聴環境だ。ノートパソコンで観るしかないのだ。音は外付けスピーカーでいくらかはどうにかなるとして,画面はどうにもならない。

● DVDはリッピングしてある(これが違法だというのだから,日本の著作権法には恐れいる)。それをスマホに移して,スマホで視聴したほうが画質は良くなるかもしれない。
 とにかくたくさん視聴しようと思えば,ながら聴きをするしかないものな。“ながら”をするのにスマホはじつに適している。
 ファイル形式の問題とかあるんだろうけど,本気で検討してみようか。

2016.05.07 えびすエスプラナードオーケストラ 第22回演奏会

セシオン杉並ホール

● 開演は午後2時。入場無料。
 セシオン杉並のホールは,大小を備えたホールだと小ホールの規模だろうか。こじんまりとしている。そのホールが,しかし,ほぼ満席となった。

● 曲目は次のとおり。指揮は野村秀樹さん。
 バッハ 管弦楽組曲第3番第3曲「ガボット」
 ベートーベン 交響曲第7番
 ブラームス 交響曲第1番
 ドイツ3大Bを取りあげることにした,と。結果として重量級のプログラム。

● 野村さんが,演奏前にいろいろと解説するスタイル。最初にこのオーケストラについて話した。楽団のサイトにも同じことが書かれている。
 JR恵比寿駅の駅ビル「アトレ」の7階に「よみうりカルチャー恵比寿校(読売日本テレビ文化センター)」なるカルチャーセンターがあって,その講座のひとつとして,月2回(第2,第4土曜日の午前中)練習している。野村さんやコンミスの深見綾子さんは,その講座の講師ということらしい。
 年に1回の演奏会は,その総仕上げということ。というか,まず演奏会で演奏する曲目を決めて,カルチャーセンターの講座でそれに向かって練習を重ねていく。講座の定められた回数の練習では足りないときは(足りないのが常なのだろうが),講座とは別に練習する。

● なるほど,この形はあまり聞かない。こういう契機を持つオーケストラもあるんですねぇ。
 「オーケストラへの参加はえびオケが初めてという団員も多数在籍しています」とあるんだけど,オケは初めてという人はいても,楽器に触るのが初めてっていう人はいるんだろうか。
 そういう人でも1年でベートーヴェンやブラームスを演奏できるようになるんだろうか。

● コンミスのほかにも講師側にいる奏者はいるらしかった。2ndのトップはまさか講座の受講生ではあるまい。チェロの中にも手練れがいた。
 そういう人たちに支えてもらいながらも,ブラームスの1番を形にしてきたのは,たいしたもの。少なくとも,ぼくには逆立ちしてもできないことだからね。

● 高円寺を歩いたのは,今日が初めて。近くの「蚕糸の森公園」に行ってみた。
 天気が良くて暖かくて,こういう日にこういうところでボーッとするのはかなりの快感。優雅な時間を過ごすのにお金は必ずしも必要ないことがわかる。

2016.05.07 ハーモニーアンサンブルオーケストラ ブルックナー6番演奏会

杉並公会堂 大ホール

● ブルックナーの6番を演奏するために集まった一発オケということのようだ。
 指揮は柳橋明徳さん。

● 世にも珍しい10:45開演。開場は15分前の10:30。入場無料。チケットも整理券もなし。
 プログラムはA4の片面印刷のものが1枚。入口にドサッと置いてあって,持っていきたい人はそうぞ,という感じ。
 したがって,改札口(?)で流れが滞ることはない。スッスと流れていく。

● にしても,15分で入場から着席までを完了させるわけだから,満席になるほどのお客さんが押し寄せたのでは,なかなか難しい。
 そんなに来るわけないよ,時間が時間だし,と,主催者側もこのあたりは折りこみ済みなんでしょうね。

● ステージ上は年齢も服装もバラバラ。客席はガラガラ。午前中からということもあるし,“フロイデ”に載せたのが唯一のPRだったのではないかと思われるし。
 その中にあって,10:45開演に間に合うように栃木からここに来たオレって。どんだけ暇なんだ,ってか。

● ブルックナーの交響曲は,CDで聴くとどれもが同じに聞こえる。これは4番だ,これは7番だ,といった区別がつかない。
 いや,いくら何でもそれはないでしょ,と思われるだろうなぁ。ところが,謙遜でも何でもなく,本当にそうなのだ。

● ベートーヴェンやブラームスだと,いくらぼくでもそういうことはあり得ない。ブルックナーだけだ。
 理由は,自分の感度の鈍さを別にしても,いくつか考えられる。聴きだした時期が非常に遅かったこと。その後もあまり聴いていないこと。
 どの曲も弦のトレモロが強烈に印象的で,その共通性ゆえに曲ごとの違いが曖昧になるのも,理由のひとつ。

● でも,6番はそのトレモロがあまり登場しないんですねぇ。となると,それはそれでもの足りないと感じてしまう。
 ひょっとして5番や7番に比べて演奏される機会が少ないのは,このあたりも理由のひとつではと思ったりする。

● CDで聴くと同じに聞こえる曲こそ,ライヴで聴く効用が大きい。あぁ,こういう曲だったのか,と初めて腑に落ちることになる。

2016年5月6日金曜日

2016.05.05 宇都宮北高等学校吹奏楽部 第30回定期演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● 30回目ということで歴代の顧問の先生が登場した。といっても,二人。学校の先生は同じ学校に長く勤めるんだね。
 で,ぼくはといえば,この高校のこの演奏会は5年連続で5回目の拝聴になる。30年の6分の1にはつきあったぞ,と。たった6分の1だけど。

● ともあれ,この演奏会は黄金週間の定例行事になった。そうなると,黄金週間にどこかに出かけようなんぞとは思わなくなる。
 ま,子供が大きくなってからは出かけることもなくなってるんだけどさ。この時期はどこに行っても混雑がひどい。混雑してるってことは,乳幼児の泣き声をはじめとする諸々の雑音も受忍限度を超える大きさになるってこと。出かけていいことなど何もない。出かけないですむんだったら,出かけないほうがいいよね。

● 開演は午後1時半。チケットは800円(前売券の自由席)。30分以上前に長い長い行列の最後尾に並んで入場。この時点で当日券は完売になっていたようだ。
 例年,この演奏会は宇都宮市文化会館で行われている。その文化会館が改修工事で使えない。で,こちらの総合文化センターになったのだろう。文化会館に比べると,総合文化センターの収容可能人員はだいぶ少なくなる。

● 恒例の3部構成。
 まず,第1部。プログラムは次のとおり。
 ショスタコーヴィチ 祝典序曲
 J.シュトラウス 喜歌劇「こうもり」セレクション
 ベルリオーズ 幻想交響曲より第5楽章「サバトの夜の夢」

● 昨年も「祝典序曲」から始まっていた。2年連続だ。
 呆れるほど巧い。そうとしか言いようがない。どうやったらこれ以上の仕上がりになるのか,ぼくには見当がつかない。
 それでも東関東を突き抜けて全国に駒を進めるのは,決して容易ではないようだ。となると,全国に出てくる高校の吹奏楽はいったいどんなものなのか。

● 「こうもり」は前顧問の菊川祐一さんが指揮。OB・OGも加わっての演奏になった。
 吹奏楽の守備範囲っていうのを考えさせる。つまり,どんな曲でも吹奏楽で演奏できるんだろうか。
 どうやらできるっぽい。バッハのシャコンヌにだって吹奏楽版があったはずだ。向き不向きはあるにせよ,吹奏楽で表現できない楽曲はこの世に存在しないってことでよろしいか。

● 幻想交響曲第5楽章は前々顧問(と思われる)の岩原篤男さんが指揮。現顧問の田村さんがOGとして演奏の列に加わった。
 この曲は,ベルリオーズが何を描こうとしたのかってのを予め承知していれば,そこに引きつけて聴いていくことができるけれども,そこを飛ばしていきなり聴いたらどう感じるか。
 相当に大昔の記憶になるんだけど,最後まで聴くのにかなりの忍耐を要した。どこが“幻想”なのか,ぜんぜんわからなかった。聴き手の質の問題だったと今なら了解できるんだけどね。

● 演奏する側にしてみれば,かなりの難曲ではないか。滑らかな演奏。苦もなくやってのけているように見えるんだけども,そんなはずはないよなぁ。
 朝,昼休み,放課後と練習してるんだろうけどねぇ。大人になってからもそれだけ何かに打ちこめれば,その何かにおいて必ずひとかどの人物になれるんだろうなぁ。

● 第2部は次の3曲。
 スパーク オリエント急行
 ホーナー タイタニック・メドレー
 ウィーラン リバーダンス

● 「リバーダンス」の曲目解説によれば,アイルランドでは「19世紀の飢饉等により多くの人がアメリカへの移住を余儀なくされ」た。
 日本でも江戸四大飢饉があった。明治以後も冷害による不作で,東北では娘を売るということがあったと,中学校か高校の社会科で習ったことがある。けれど,アイルランドは日本よりはるかに北にあって,自然環境も日本より厳しい印象がある。
 どの国にもあるんだろうな,こういうこと。それがそんなに昔の話ではないんだよね。

● ここまでの演奏をしていれば,観客サービスのためにバラエティーを加える必要はない。黙って聴きやがれ,でいいと思う。したがって,第2部で終わりでも,まったく文句はない。
 でも,第3部がある。プログラムにはミュージカルとある。生徒はやりたいんだろうな,こういうの。

● 今回は「レ・ミゼラブル」。台詞の代わりに楽器を奏でることがあるのは,例年と同じ。っていうか,ほぼ無言劇(ナレーションのみ)。そこが工夫なんだと思う。
 昨年は「サウンド・オブ・ミュージック」で,トランプ大佐役の女子生徒が男装の麗人的なイメージで,人目をひいた。今回もマリウス役の女子生徒が最も美味しい役どころだったね。
 男女比が偏っているがゆえのキャスティングだったのかもしれないけれど,この役に男子を充ててはいけないね。

● マリウスを挟んで,コゼットとエポニーヌが三角関係に立つ。エポニーヌはマリウスの楯になって死んでいく。このあと,コゼットとマリウスが結婚。って,この流れはないだろう,間に何か挟めよ,原作者。
 エポニーヌの出番をもうちょっと増やせなかったかと思う。元々,彼女の出番は少ないんだろうけど。

● バルジャンの今際の際に登場したフォンテーヌのダンスがどういうわけだか印象に残っている。いや,どういうわけだかじゃない。巧かったからだな。
 すでに亡くなっているフォンテーヌがバルジャンを迎えに来たっていう設定。そのフォンテーヌの母性というか,聖母マリア的な気高さというか,そういうものが出ていたような。
 踊っていた女子生徒がそんなことを考えていたはずはないので,結果的にそうだったということ。あるいは,ぼくの勝手な思い入れ。

● 今回も他校の生徒がたくさん,聴きに来ていた。制服を着てる子が多いから,どこの高校かはわかるんだけど,けっこうな数になる。
 勉強になるだろうね。演奏以外でも,観客の楽しませ方,客席へのノーティスの届け方など,こうすればいいのかっていう発見があるんじゃなかろうか。
 もっとも,基本は演奏水準ということになるわけで,ここはわかっていてもすぐにはどうにもならない。

● そうした運営もOB・OGがやっているんだろうか。たぶんそうだと思うんだけど,これもかなり洗練されている。
 出すぎない。けれど,きちんと注意は与えている。こういうのって,注意と一緒に不快感を与えてしまうことがままあるけれども,そこは上手に封じている。お見事だ。

2016年5月4日水曜日

2016.05.03 矢板東高等学校合唱部・吹奏楽部 第13回プロムナードコンサート

矢板市文化会館 大ホール

● 昨年に続いてお邪魔することにした。ぼくが聴きたいのは主には吹奏楽なんだけど,合唱も両部合同の舞台劇も少々以上に楽しみだ。
 とにもかくにも,昨年の印象が強い。その印象はしかし,この1年間でぼくの脳内で変容を被っているかもしれない。今年の演奏を昨年と比較してしまうという聴き方だけは避けなくてはと思う(→結局,しちゃったんだけどね)。
 開演は13時30分。入場無料。

● 内容は今年も3部構成。例年そうなのだろうな。
 第1部は合唱部。まずは,「MISSA BREVIS for MIXED CHORUS」から“Kyrie”,“Gloria”,“Sanctus”の3曲。
 昨年と同じく,男声は3人(プログラムノートの出演者一覧によれば4人いるはずなのだが)。昨年はずいぶん少ないんだなと感じたんだけども,今回はそういうものかという受けとめ方。男声なんてのは3人もいれば充分じゃん的な。

● いやいや,もうちょっと欲しいよね,やっぱり。開演前のプレ演奏で歌った「いざ起て戦人よ」は,もっと大人数の方が説得力が増すタイプの曲だしね。
 しかし,次の「狩俣ぬくいちゃ」も「むらさきの」も,きちんと成立していた。やはり男声なんてのは3人もいればいいのかね。

● 一番面白かったのは,「応援ソング J-POPメドレー」。投入した手間暇が一番大きかったろうから。寸劇が付くんだもんね。
 そのMCが非常によくできていたと思う。旅研究会なんて誰が思いついたんだろう。最後の“女を捨てる”シーンが落ちにもなっていた。誰が演出を考えたのかと思いますな。

● 第2部が吹奏楽。昨年の樽屋雅徳「ノアの方舟」のような大曲(?)はなくて,短打を重ねて得点を積みあげていくという感じ。
 「INCANTATIONS」は附属中の生徒による演奏。技術的には高校生とほとんど差がない(ように感じた)。小学生からやっていた生徒さんが多いんですかねぇ。ツボは心得てるよって感じの演奏だった(ように感じた)。

● ぼくはどうもホルン吹きに目が行くようだ。昨年もホルンの女子生徒に注目したんだけど,今回もホルンの男子生徒をなかなかやるなと思って見ていた。なかなかやるな,っていうと,どうも上から目線で申しわけないんだけど。
 ところで,昨年のホルン女子はどこに行ったのかな。わからなかったな。

● 演奏以外で面白かったのが,「ジャパニーズ・グラフィティ アニメヒロイン・メドレー」での男子生徒2人のMCだ。特に3年生のほう。あれは素なのか演技なのか。
 ま,演技なんでしょう。でもって素なのかと思わせるところが味なんだろうな。セーラームーンについての語り,演奏中の女子生徒に混じってのダンス,そのあとのフォロー。いずれもいい味で。
 ただし,この味はツボにはまらないと出てこないだろうな。常時出せるといいんだけど,そうは問屋が卸してくれない。

● 第3部は,両部合同で今回は「美女と野獣」。吹奏楽部はピットで演奏し,合唱部が舞台で歌う。つまり,合唱部がお得。演劇部からアシストが入ったようだ。
 合唱に求められる技能と舞台で演じる際に求められる技能は一致しないはずで(当然だ),そこで演じる側に少々の戸惑いがあったかもしれない。

● 歌ではなく台詞を喋る際に,栃木弁アクセントがどうしたって入ってしまう。これ,避けようがないね。
 「あなたなの?」という単純極まる台詞であっても,栃木弁のアクセントから脱却するのはほぼ不可能かもしれないなぁ。
 どうやら栃木弁っていうのは,愛をささやくには不向きな言語だね。

● っていうか,栃木県人は「あなたなの?」なんて言わないね。いや,栃木県人じゃなくても言わないな。「あなたなの?」っていう言い方はリアル世界には存在しないものだもんね。
 よかった。栃木弁でも愛はささやける。

● 今回,最も印象に残ったのはガストンを演じた男子生徒。声質のせいか,歌も台詞も最も通りがよかった。役者らしい役者という印象になった。
 合唱部の高校生に演技に関してここまで言うのは酷に過ぎると重々承知のうえで申しあげると(承知しているなら言うな),歩き方に気を配ると舞台がもっと締まったはずだと思う。
 歩幅をどのくらい取るか,直線上を歩くように歩くのかそうではない歩き方をするのか,そのときに目線をどこに持っていくか。
 まずは下半身に神経を届かせること。表情を作るのはその後でよい。

● と,小賢しいことを申しあげたけれども,そんなことは所詮,些事にすぎない。ここに投入してきた時間とエネルギーと集中の大きさは,充分以上に伝わってきた。それがつまり客席を支配する説得力になる。
 お客さんに愉しんでもらいたいと思ってここまで作ってきたのだとすれば,その狙いは百パーセント達成されていたと思う。

● そこは生徒さんたちも感じていたはずで,終演後,客席に向かって深々とお辞儀をした(緞帳が下りるまでその姿勢を保っていた)ときに味わっていたであろう達成感の大きさを思うと,率直に羨ましいと感じる。
 それだけで彼ら彼女らの高校3年間を「成功」という言葉で形容していいいように思われる。自分にはその「成功」がなかっただけに,より羨ましいと感じるのかもしれないんだけどね。

● 東日本大震災,熊本地震の募金活動も併せて行っていた。終演後,ちょっと考えた。この演奏に対していくらまでなら出せるだろうか。その金額を募金していこう。
 プライスレス,だよね。であれば,持ち金ぜんぶ置いていくか。
 ということにはならず,些少な額にとどまったのは返す返すも申しわけないことだった。