2016年3月31日木曜日

2016.03.27 さくら吹奏楽フェスティバル

さくら市氏家公民館

● 3年前に一度聴いている。客席の雰囲気は3年前と同じ。登場団体は,喜連川中学校,氏家中学校,さくら清修高校,Jr.ウインドハーモニーうじいえ,さくらウインドアンサンブルの5団体。
 開演は午後2時。入場無料。

● トップバッターは喜連川中学校吹奏楽部。和田直也「彼方の光を掴むとき」を演奏。こぢんまりとしている分,まとまりがいいんだろうな。
 楽譜のとおりに吹くだけでいっぱいいっぱいなんだと思う,実際は。
 ところが,ステージから届いてくるのは音楽になっているし,その音楽にたしかに個性というか,奏者の解釈というか,そうしたものが含まれているように思われる。

● 次は氏家中学校と喜連川中学校が合同で,ロースト「ヴォルケーノ」と,「J-BEST'15(2015年J-POPヒッツメドレー)」を演奏。
 ホルンに注目。喜連川中1,氏家中3の4人。いずれも女子。吹奏楽曲はあまたあるけれども,どの楽器が活躍するとか,しないとか,そういうことはあまりないんだと思う。コンチェルト的なものを除けばね。

● この曲だってホルンの出番が多いというわけではない。なんだけれども,ホルンが安定していると,全体が落ちつく。
 ホルンは小さな操作ミスで大きく音が狂うから,取扱いが難しい。が,安心して聴いていられた。聴衆に安心感を与える所以は,姿というか,吹いているときのたたずまいにあるように思う。

● ぼくはテレビをまったく見ない生活を始めてまる2年になる。それで不都合は感じないんだけど,最近のポップスはまるでわからない。
 テレビでも(昔の言葉でいうと)歌謡番組はほとんどないんでしょ。けど,ドラマの主題歌とかはね,テレビを見てれば覚えるんだと思うんですよね。
 どうも,「J-BEST'15」の中にぼくが知っているメロディーはなかったようだった。

● さくら清修高校吹奏楽部。喜連川中学校よりもさらに少人数。ディズニー・プリンセス・メドレーと「Let's Swing!」。
 ティンパニを担当していた女子生徒の,音を払うときの仕草がかっこよかったね。サッと鼓面をなでて音を止める仕草。
 ステージでのパフォーマンスなんだから,こういう見た目を等閑に付してはいけないんでしょうね。かっこいいって大事なこと。

● ただし,ここはティンパニの美味しいところかもね。もともと目立つ位置取りができるパートだ。
 ほかの楽器じゃなかなか,そこまでのパフォーマンスはしたくてもできない。

● Jr.ウインドハーモニーうじいえ。メンバーは小中学生であるらしい。氏家中の生徒も入っているのだろうな。学校の部活と掛け持ちって人もいるんだと思う。
 GReeeeN「オレンジ」,ロジャース「私のお気に入り」,スウェアリンジェン「アヴェンチュラ」の3曲。と書いているけれども,プログラムノートから引き写しているわけで,たぶんすべて初めて聴く曲だと思う。

● さて,その出来映えたるや。いや,巧いんですね。きっちりと仕上げてきてるっていう印象。
 小中学生がここまでやるということを,ぼくらは肝に銘じておかないといけないと思った。子供じゃない。小さな大人だ。

● 最後は,さくらウインドアンサンブル。岩村雄太「『怒りの日』の主題によるパラフレーズ」,久石譲「Stand Alone」,「およげ! たいやきくん in Swing」の3曲。
 正真正銘の大人の安定感。

● 音楽っていうか,演奏っていうのは,楽しそうだからやってみようと思ったっていうのが,正統な始め方なのだろう。で,実際に楽しかったから今も続けていますよ,と。
 楽しめるところまで行くにはそれなりに時間がかかるもので,その間は止めない努力が必要なんだとしても,楽しめるところまで到達できればしめたもの。
 そういうところまで到達した大人が,リラックスして楽しんでいる。そういう風情。

● 最後は以上5団体の合同演奏。「アフリカン・シンフォニー」と「愛を叫べ!」。
 途方もない大編隊になった。「アフリカン・シンフォニー」は大編隊向きなんですか。ただただ,圧巻という感じ。音の厚みって数だけで決まるものではないはずだけれども,これだけいれば否応なく厚くなる。音が割れてしまうこともなかったようだ。

● アンコールを2曲加えて,終演となった。ご馳走さまでした,っていうか,そういう感じ。

2016年3月30日水曜日

2016.03.26 第5回音楽大学フェスティバル・オーケストラ

東京芸術劇場 コンサートホール

● 首都圏の9つの音大の選抜チームによる演奏会。昨年の11~12月には各大学ごとのオーケストラの演奏があった。最後にオールスターチームが演奏する。
 この時期だから,4年生は卒業式を終えている。3年生主体のチームになるのだろうと思っていたんだけども,そうではないらしい。
 「学生が“ひとりの音楽家”となって学び舎を巣立つ前に,大学の垣根を超えてひとつのオーケストラを奏でる,夢の2日間である」とプログラム冊子に書かれていた。
 “夢の2日間”というのは,昨日もミューザ川崎で同じ演奏会をやっているからだ。

● そうなのか。この時期だと出たくても出られない学生も多いだろうけど,思いで深いイベントになるんだろうな。
 大学の4年間は誰もが同じ場所で同じことを学ぶ。が,4月からはそれぞれの道を行くことになる。3年,5年,10年と経つうちに,いよいよ自他の立ち位置は大きく離れることだろう。同級生だからといっても,思いで話以外には,話が合わなくなる。
 そうなるはずで,ならなかったらおかしい。

● 音大に入ったくらいなんだから,プロの音楽家を目指していた人が多いのだろう。が,プロの道に進むのは,彼らの中のほんの一部のはずだ。
 彼ら彼女らの多くは小さい挫折感を味わっているのかもしれないし,当初の想定どおりでサバサバしているのかもしれない。
 どっちにしたって,切替えは速い人たちなのだろうな。切替えの速さは,演奏家に求められる資質の中でも,重要なもののひとつなのだろうから。

● 開演は午後3時。席はSとAの2種で,S席が2,000円。今回のぼくの席はだいぶ前のほうで,管楽器の奏者は見えなかった。その変わり弦は奏者の息づかいまで感じられるほど。
 プログラムは次の2曲。ロシアの東西横綱揃い踏みという感じ。指揮は尾高忠明さん。
 チャイコフスキー 交響曲第5番 ホ短調
 ショスタコーヴィチ 交響曲第5番 ニ短調

● チャイコフスキーの5番を聴いてから,ショスタコーヴィチの5番を聴くわけですよ。聴くほうにもそれなりのスタミナが要求される。演奏する側にとってはさらにそうだろう。

● まず,チャイコフスキーの5番。2楽章のホルン独奏もまったく危なげなく,最初から最後まで安心して聴いていられるのは,当然といえば当然。
 動きもきれいだ。背中がピンと伸びた美しきコンサートミストレスが,画竜の点睛となって,絵として見ても様になっている。

● ショスタコーヴィチでは男性のコンマスに交替。プログラム冊子の曲目解説からひとつだけ転載しておく。
 第4番の作曲の筆を進めている最中,1936年1月,プラウダ紙にある記事が載る。新聞中面に掲載された匿名の小さな記事の題名は「音楽の代わりに荒唐無稽」。ショスタコーヴィチのオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を批判する内容だが,この意味することは重大だった。スターリン政権下,西欧流の難解な音楽を書く作曲家は“形式主義者”とみなされ,粛清される,芸術への弾圧が始まったのだ。ショスタコーヴィチは交響曲第4番をその後完成させ,リハーサルを始めたが,曲の危険性を察知したか,急遽初演を中止した。そして1年後の1937年,プラウダ紙の批判記事への返答のように,体制が求める社会主義リアリズムに叶うように作曲したのが交響曲第5番である。
● この曲は先週も聴いている。コンサートを選ぶときに,曲で選ぶことはあまりないので,これは偶然そうなったにすぎない。
 こういう偶然はむしろ歓迎するところだけれど。

2016.03.20 栃木ホルンクラブ 30周年記念演奏会

栃木県総合文化センター サブホール

● 2010年2月に一度,聴いている。それ以来ってことになる。開演は午後2時。チケットは500円。
 狩猟ホルンやアルプホルンの実機を見たり,その音色を生で聴ける機会はそうそうない。ただし,そんなにしばしば聴かなくてもいい。

● 栃木ホルンクラブのメンバーの過半は栃響に属している。ので,栃響から管弦打楽器の賛助出演を仰いで,多彩なプログラムを展開。

● ここに登場する奏者は,全員がアマチュア。つまり,演奏で稼いでいる人たちではない。
 で,ときどき思うことがあるんだけど,たとえば戦前のプロ奏者っていうのは,今ここで演奏している人たちより巧かったのかね。
 昔のプロより,今のアマでバリバリやってる人のほうが巧かったりするんじゃないかねぇ。

● 最後のマーラーの1番(終楽章)がやはり圧巻だった。当然,オールキャスト。数の力もあるし,曲の力もある。
 あと,「ずいずいずっころばし」が印象に残っている。そもそもが「ずいずいずっころばし」をちゃんと知らなかったんだろうね。ホルンの演奏でちゃんと聴いたので,こんなにいい曲だったのかと気づいたということだろう。

● ヘンデルの「水上の音楽」。ヘンデルは「メサイア」以外を聴く機会はまずないように思うんだけど,そうなるとCDでも聴くことが少なくなってしまう。
 こうして聴いてみると,せっかくCDがあるんだから,聴く機会を作らないとなぁと思う。

● 唯一,ベートーヴェンの「六重奏曲」第1楽章において「もう一回」が出てしまったのは,少々残念だったか。
 開始後まもないところだったので,まぁ仕方がないかと思うものの,ここは辛くても我慢して継続するか,でなければこの曲に関しては演奏を中止し,兵をまとめて退くべきだったのではないか。

● でも,プログラム冊子に寄せられている「メンバーから一言」を読むと,兵をまとめて退くなんてのはあり得ない選択肢だったのかとも思う。

2016年3月28日月曜日

2016.03.19 フィルハーモニックアンサンブル管弦楽団 第60回演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● このオーケストラ,凄すぎる。1976年に立教大学交響楽団OBが中心になって設立,その後「広く門戸をひろげ」た。
 カーネギーホール,ウィーン楽友協会大ホール,北京の世紀劇院大ホール,ベルリンのフィルハーモニーホールで演奏している。他に,ヨーロッパ公演に何度か出かけているようだ。
 コンサートマスターは元N響の永峰高志さん。CDも何枚かリリースしている。限りなくプロっぽい感じだよね。

● 今回も,指揮は小林研一郎さん,ソリストに仲道郁代さんを招いている。
 ついでに申せば,入場料も3,000円(S)と2,500円(A)。プロオケだとだいたい5,000円といったところだから,まぁ安い。が,アマチュアとしては高いほうに属する。

● しかし,聴き終えてみれば,この3,000円はかなり安いのだった。ほかにも,高名なアマチュアオーケストラがあるね。機会を得て聴いていきたいとは思っているんだけど。
 これでアマチュア?って思いますよね。プロとアマ,単純に二つに分けて,そのどちらかってやってしまうのは,単純にすぎるんだろうけどねぇ。プロより巧いアマがいるようなんだよなぁ。

● 曲目は次のとおり。
 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調
 ショスタコーヴィチ 交響曲第5番 ニ短調

● ソリストは前述のとおり,仲道郁代さん。彼女のピアノは過去3回聴いている。彼女がベートーヴェンのピアノソナタ全曲を収録したCDを出していることも知っている。っていうか,そのCD,ぼくはすべて持っている。
 で,思うに。仲道さんってこんなに巧かったっけ・・・・・・。なっなっ・・・何を言っているんだ,オレは。ぼっぼっぼっ・・・暴言多謝。

● こういうふうに感じたことについて,以下に弁明。
 過去に聴いた中にはホールがそれこそどうしようもなかったこともあるし,その他いくつかの理由をでっちあげることができるんだけれども,要は,こちらがいいものをいいと感じられる水準になかったってことなんだと思う。
 しかし。これほどのものをいいと感じられなかったって,いったい何なんだ。音盲というやつか。

● 小林さんは,大晦日恒例になった感のある,東京文化会館で行われる「全九」で何年か連続でタクトを取っている。そこで毎回感じることは,オケに対してへりくだるというか,オケを持ちあげるというか,オケにたいして腰が低いというか,そういうことだ。
 「全九」のオケは全日本選抜といっていい陣容だから,ことさらにそうしているのかと思ってたんだけど,そうではなかった。

● 演奏が始まってしまえば,指揮者は専制君主だ。また,そうでなければならないものだろう。が,専制君主でいられるためには,その前に心を砕かなければならないことがあるのだろう。
 オケからリスペクトを獲得するのは最低限として,適度な距離を計らなければならない。どの長さが適度かは人によって違うし,状況によっても変わってくる。
 心の砕き方も人によって方法論は違うだろう。小林流はこうなのだね,たぶん。

● ショスタコーヴィチは,ぼく的にも最も気になる作曲家のひとり。同時に,あまりお近づきになりたくない気持ちも強い。
 要はややこしいからなんだよね。スターリンが君臨するソ連に生きている以上,共産党から睨まれれば命がない(かもしれない)。かといって,社会主義芸術に堕したくはない。そのアンビバレントの狭間で苦吟するというイメージ。

● そうなんだと思う。そうなんだと思うんだけど,そうなのか。いや,それだけなのか。それはあまねく普及している固定眼鏡だけれども,その眼鏡で彼を見ていいのか。別の見方はないのか。
 っていう,何とも名状しがたいムズムズ感があるんですよねぇ。

● では,すべては作品が語っているはずだから,そういった予備知識を一切捨象して,無心に作品に対すればいいか。
 どうもそういうわけにもいかない気がする。無心にこの曲を聴くと,(ぼくの場合はなんだけど)ひとつの世界を築くことができない。何が何だかわからなくなる。

● 面白いんですよ。第1楽章なんか,地の底から宇宙に飛びだし,そのまま地上に戻ってくるみたいな,超高速エレベーターに乗せられて上下に動かされているみたいな(しかも,エレベーターはガラス張りになっていて,外の風景が見えてしまう感じ),軽い酩酊感に襲われる。
 第3楽章のたゆたうように優雅でありながら,どことなく無機質なたたずまい。味わうべきところはたくさんある。

● というわけで面白い。だけれども,自分の中でまとまりがつかない。
 まぁね,そうやって愚痴っていいほど聴いているわけではない。こうやって高水準の演奏を聴かせてもらうと,ふっと思うわけですよ。
 よしっ,今年はショスタコーヴィチ・イヤーにしよう。彼の全曲を聴いて聴いて聴きまくってやろう。

● 今どきだから音源なんてタダでいくらでも手に入るじゃないですか(だものだから,大量の音源を集めようと思えば,いくらでも集まってしまう)。
 デジタル携帯プレーヤーやスマホがこれだけ普及しているんだから(しかも,ハイレゾ対応なんぞというすごいことになっている),文字どおり,音楽を持ち歩くことができる。
 聴く環境は史上空前といっていいほどに整っている。あとは聴くだけだ。だから,よし聴こうという気にさせてくれるライヴをとらえて実際に聴くように持って行ければ,そのライブは一粒で二度美味しいってことになる。

● 実際にそうすることはたぶんないんだけどね。それが見えてるわけでさ。ここがどうにも問題なんだけど。

2016年3月22日火曜日

2016.03.19 早稲田室内管弦楽団 プロムナードコンサート2016

IMAホール(光が丘IMA)

● 「早稲田大学交響楽団の1992年度卒団生が中心となって結成され」たと,この楽団のホームページで紹介されている。
 大学オケはあまたあるけれども,早稲田大学交響楽団は演奏水準においてもレパートリーの広さにおいても,先頭を走っているのではないかと思われる。

● 早稲オケの演奏は二度しか聴いたことがない。それでここまで言うのも何だけれども,印象はかなり強烈だった。
 そのOB・OGであれば,聴いてガッカリさせられるはずはないなと思った。では行ってみよう,と。

● 新宿で都営大江戸線に乗換え。新宿駅っていうのはねぇ,東京の魔窟というか,行きたくないところなんですよね。なぜというに,構内で迷子になるんだもんね。最悪,現在地がどこなのかわからなくなる。
 サザンテラスができてからだよねぇ。駅にもサザンテラス口ができて,動線が非常にわかりづらくなった。って,ぼくの方向感覚がちょっと悪すぎるだけなんだと思いますが。

● 無事に乗り換えて,大江戸線の終着駅,光が丘に着いた。かなりの時間,乗っていた気がする。ギリギリ東京の練馬区になりますか。もうちょっと行くと,埼玉県和光市になる。
 駅を出ると大きなショッピングセンターがあって,会場のIMAホールもショッピングセンターの中にある。マンションもニョキニョキはえている。高層団地っぽい。真っさらなところを開発したんでしょうかねぇ。

● 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を購入。曲目は次のとおり。
 ホルスト 第1組曲(ゴードン・ジェイコブ編管弦楽版)
 バッハ シャコンヌ(ヨアヒム・ラフ編管弦楽版)
 ドヴォルザーク 交響曲第8番 ト長調

● 以上の曲を指揮者なしで演奏する。「通常は指揮者を置かず,メンバー同士がアンサンブルを大事にして音楽を作り上げていくように心がけており,練習ではプロフェッショナルの指導を仰いでいます」とのことだ。
 名前に室内と付くものの,れっきとしたオーケストラだ。ドヴォルザークの8番まで指揮者なしでできるのかと思ったら,できるんだな,これが。

● まぁ,不思議はない。たいていのオーケストラはできるんだろう(が,どのレベルでできるかっていうのは,別の問題)。
 コンマスが1曲ごとに交替した。女-男-女。奏者がコンマスをチラッと見る。チラッとなんだけど,真剣なまなざしで。
 コンマスが指揮者を兼ねる。3人目の女性コンマスがコンマス兼指揮者としてお見事。どんどんサインを出していく。奏者から見てわかりやすいだろう。

● バッハの「シャコンヌ」は元々は無伴奏ヴァイオリン曲。それをピアノ版,吹奏楽版,弦楽合奏版,管弦楽版など,いろんな人が編曲してきた。そうさせるだけの魅力をバッハの原曲が持っているわけだ。
 その中で,管弦楽版は生で聴く機会を持てないで今日まできてしまった。やっと渇きを癒せると思ったのが,光が丘まで来た理由の第一。

● 2010年2月28日に宇都宮で“パーカッション&ホルン「クラシカルコンサート」”っていうのがあって,そこに登場した伊勢友一さんが,シャコンヌの管弦楽版を聴いて,音楽ってこんなにすごいことができるのかと感じ入った,それがこの道に進むキッカケになった,ということを話していた。
 それが妙に記憶に残っていて,一度,生で聴いてみたい,と。

● というわりには,CDは1枚しか持っていない。斎藤秀雄編のもの。下野竜也さんの指揮で読響が演奏しているものだ。それを繰り返し聴いてきた。
 ラフが編曲したものは,斎藤編と比べると,軽快で小気味がいいように感じた。デコラティブになることを免れているといいいますか。
 逆に斎藤編に感じる荘重感のようなものは少なくなる。

● ドヴォルザークの8番。コンマスの貢献もあると思うんだけど,指揮者なしでここまでやれるんだな,というのがまず驚き。
 こういうのを聴くと,指揮者って本当に必要なのかと思うんだけど,ま,必要なんでしょうね。

● 3楽章の滑るように肌理の細かい甘美さが見事に表現されていたし,4楽章冒頭のトランペットのファンファーレも完璧。

● 自分が聴きたい演奏ってこういうものなんだよ,と自分が気づかされる。一途なんですね。スレていない。まっすぐな感じがする。
 技術に関しては,現時点で充分に巧い。もっと巧くなってもらってもいいけれども,巧さだけが勝るとその半面で何かが失われないかと不安になる。巧さよりもその何かのほうが重要なのだ。
 ただし,その何かとは何かと問われると,わからないとしか言えない。わからないんだけど,何かすごく大事なものを彼らは所有しているように思われる。

● アマチュアの特権なのかもしれないけれど,ひとつの演奏会にじっくりと時間をかけることができる。じっくりと時間をかければいいものができるとは限らない,というのも真理には違いない。逆に,時間をかけなきゃダメだということも,たぶん,ないだろう。
 が,時間をかけるのがうまく効けば,今回の演奏になる。貯めたものを一気に吐きだすときに出てくる勢いのようなもの,あるいは潔さのようなもの。出し惜しみのなさ。押しつけがましくなく,吸引力だけがある。

2016年3月20日日曜日

2016.03.12 アンサンブル・リチェルカーレ第8回定期演奏会

杉並公会堂 小ホール

● 開演は午後7時。チケットは500円。
 杉並公会堂の小ホールに座るのは初めて。椅子などは少々チャチイ感じがなくもなけれど,音響はまったく問題なし。

● アンサンブル・リチェルカーレは木管五重奏のグループ。宮崎真哉さん(フルート),島崎英也さん(オーボエ),松岡将法さん(クラリネット),柴山千秋さん(ホルン),石川恭世さん(ファゴット)の5人。

● それぞれ腕に覚えがある人たちのはず。男性的な音色のファゴットとホルンを女性が担っている。いや,べつに普通にあることなんだけど。
 曲目は次のとおり。
 プーランク ノヴェレッテ
 杉浦邦弘編 日本の心
 ヴィラ=ロボス ブラジル風バッハ第6番
 デランドル 木管五重奏のための3つの小品
 ムソルグスキー 組曲「展覧会の絵」

● ブラジル風バッハはフルートとファゴット,つまり,宮崎さんと石川さんの演奏。手に汗握る感じの演奏になっていた。
 ブラジル風バッハって9番まであるんでしたか。バッハとはあまり似てないような気がするんですよね。ブラジル風にしちゃうとバッハとはぜんぜん違ったものになる。
 でも,ブラジルの人が聴くと,バッハに通じるものを感じるんでしょうかねぇ。

● MCを担当した松岡さんによれば,デランドル「木管五重奏のための3つの小品」は日本で演奏されたのは二度か三度しかない,とのこと。石川さんがCDから見つけだしてきた由。
 となると,貴重感が漂いだす。色彩豊かというか多色感というか,短い曲ながら万華鏡のような趣がある(と思った)。

● しかし,圧巻だったのは「展覧会の絵」。聴く機会が多いのはラヴェルが編曲した管弦楽版。ラヴェルのオーケストレーションの見事さもあって,華やかさに満ちた曲になっているわけだけども。
 これを木管五重奏で聴くと,曲の構造,組み立ての骨格が見えやすくなる(ような気がした。たぶん錯覚だろうけど)。だったら,原曲はピアノ曲なんだから,それを聴けばもっと見えやすいんじゃないのと言われますな。

● 今回の演奏のために投入した時間や労力の大きさがうかがわれる演奏だったと言っておきたい。
 なかなか時間も取れないのが実情なのかもしれない。であれば,なかなか取れないその時間を最大限に活かして,集中度の高い準備をしてきたのだろう。

● 特に印象に残った奏者はファゴットの石川さん。楽器とともにいる時間が5人の中でも最も長いのじゃないか。
 いや,わかりませんけどね。わからないけれども,そういうふうに感じさせる演奏ぶりだった。
 
● 開演までだいぶ時間があったので,荻窪駅周辺の飲み屋街をぶらついてみた。気安い飲み屋がたくさんあるね。同時に複数の店には入れないわけだから,いい飲み屋はたくさんは要らない,ひとつあればいい,という意見もあるかもしれないけど。
 ただ飲み屋街になっていると,街ゆえの風情というか,そぞろ歩きしたくなる吸引力を持つことになるね。
 ただ,ひとつだけ前提条件があって,街として賑わっていることだ。ここは土曜日でも賑わっていた。これが地方だとそうはいかないんだよね。

2016年3月17日木曜日

2016.03.12 ユーゲント・フィルハーモニカー第10回定期演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● 類まれな高水準の演奏を披露してくれるユーゲント・フィルハーモニカーの定期演奏会に出向くのは,これが5回目になる。
 初めて聴いたのは第4回。第5回と第6回は聴いていない。今回のプログラム冊子には「ユーゲント・フィルの10年を振り返る」と題して,何人かの団員が思い出を語っている。その中で,特に興味深かったのは,東日本大震災があった年の第5回についてだ。

● 3月11日の8日後の19日に予定どおり開催したという。行きたかったね,これは。
 が,行けるはずもなかった。わが家もけっこう被災したからな。屋根から落ちた大量の瓦。ひとつ残らず倒れたタンスや食器棚。停電,断水。ブルーシートをかき集めて屋根にかぶせる作業。

● 「ユーゲントは僕も含め福島県出身者が多いのよね,東京では自粛ムードみたいなものが漂ってて,被災地出身だからこそそれは大きな勘違いだ!って訴えたかったのも正直ある」という発言も。
 わずか5年前。あのとき,ぼくも何か深刻に考えたはずなんだよね。でも,結果,何も変わっていない。生活リズムも震災以前のままだし,話していること,人から感じること,何もかもまるで変わってない。

● 開演は午後1時30分。チケットは1,000円(当日券の場合,前売券は500円)。
 曲目は次のとおり。指揮は田中一嘉さん。
 モーツァルト 歌劇「魔笛」序曲
 R.シュトラウス ホルン協奏曲第2番 変ホ長調
 ブラームス(シェーンベルク編) ピアノ四重奏曲第1番 ト短調
 ホルン協奏曲のソリストは,青木宏朗さん。この楽団のメンバーだった。現在は,兵庫芸術文化センター管弦楽団のホルン奏者。
 
● 何も考えないでボーッと聴いていた。放っておくと何か考えたくなるのが常なんだけど,今回はそういうこともなく,ただボーッと。
 シェーンベルクが管弦楽用に編曲したブラームスのピアノ四重奏曲第1番。初めて聴いた。ブラームスに駄作などあるはずもない。シェーンベルクのオーケストレーションの腕前も与って力あるに違いないんだけど,シェーンベルクをして管弦楽版に編曲してみようと思わせたブラームスの原曲の力。

● といって,原曲も生では聴いたことがない。これはあまり演奏される機会がないだろうから仕方がないとして,CDでも1回か2回かな。この程度の聴き手が聴くんだからな。
 ほとんど完璧な演奏のように思われた。たぶん,聴き手としての自分がこの楽団に吞まれているんだろうな。対峙できるように聴き手として成長しないといけない。
 とにかくたくさん聴くことだと思う。今のところ,それ以外の方法論は思いつかない。

2016年3月7日月曜日

2016.03.06 那須フィルハーモニー管弦楽団 第17回定期演奏会

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 開演は午後2時。チケットは1,000円。けっこう前に買っておいた。

● 曲目は次のとおり。
 シベリウス 交響詩「フィンランディア」
 グリーグ 「ペール・ギュント」から「イングリッドの嘆き」「山の魔王の宮殿にて」「オーセの死」「朝」「ペール・ギュントの帰郷」「ソルヴェイグの歌」
 シベリウス 交響曲第1番 ホ短調

● 指揮者は,小さな巨人,田中祐子。小さな巨人というのは,小さな身体を大きく使って指揮をするから。しなやかさと俊敏さ。スピード感と鋭角的な切れ味。そこに女性的なまろみが加わる。
 指揮そのものが一個のパフォーマンスとして鑑賞に耐える。いや,耐えるんじゃなくて,惹きつけるものがある。腹筋背筋と運動神経の賜だろうと思われる。それだけであるはずはないのだが。

● 北欧諸国に対してのぼくのイメージは,まずロシアの膨張政策に悩まされた歴史を持ち,高福祉国家であり,税金が高く,慢性的な閉塞感に覆われている,といったものなんだけど,もちろん勝手きわまるイメージにすぎない。
 「フィンランディア」の当時はスターリン時代のソ連。鬱陶しかったろう。その鬱陶しさのなかで,この曲がフィンランド国民に受け入れられたのは当然だと思われる。シベリウスの意図もはっきりと見える。

● 行進曲ではないけれど,フィン人よ,立て,と鼓舞する内容だ。金管と打楽器の出番が多い。ここがこけたらどうにもならないわけだけれども,きちんと役割を果たした。
 ピンと張りつめたその緊張感は,しかし,主には弦が作りだす。プログラムノートでは「暗鬱な部分」といい,「緊迫感を次第に高めていく」と書いているけれども,つまりそういうことだ。
 聴きごたえのある「フィンランディア」だった。この曲は何度も生で聴いているけれども,ここまで張りつめた演奏で「フィンランディア」を聴いたのは,ひょっとすると初めてだったかもしれない。

● グリーグの「ペール・ギュント」。ペール・ギュントとは「ノルウェーに古くから伝わる伝説的な人物」であるらしいんだけど,イプセンの戯曲に描かれたペール・ギュントは異常な女好きのようなんだな。女を得るために危険に挑む冒険野郎だ。カサノバ的というよりはドンファン的なんだろうな。
 それはそれとして,グリーグが付けた音楽は,ペール・ギュントが何者かを知らなくても楽しめる。

● つまり,このあたりが微妙なところで,それを知っていたほうがいいのか知らないほうがむしろいいのか。知らなければ聴き手が勝手に(自由に)イメージを作ってしまえる。知っていれば,その知っているところに縛られる。
 でも,知っていたほうがいいんでしょうね。縛られたほうがいいんだろうと思う。イプセンの戯曲を読んだうえで(翻訳がいくつか出ているようだ),CDで全曲を聴いてみよう。いつになるかわからないけど。

● この組曲の中で最も有名なのは「朝」だろう。誰でも,曲の名前は知らずとも,何度かは聴いているはずだ。
 何の脈絡もないんだけど,この曲を聴くとベートーヴェンの6番「田園」が浮かんでくる。でもって,「朝」のほうが洒落てるよなぁと思う。

● 最後はシベリウスの1番。2番は何度も聴いているけれど,1番を聴くのは初めてだ。聴いてみれば,2番と比べて演奏される機会が少ないのが不思議に思える。
 奏者にとっては楽な曲ではないだろう。かといって,2番が楽かっていうとそういうわけのものでもないよねぇ。

● 静謐なフィンランドの森と湖をイメージすることももちろんできる。が,この時期,シベリウスは酒と浪費におぼれ,自堕落な生活を送っていたらしい。そのあたりを,この作品からうかがうことはできない。
 作者の生活と作品は当然ながら別物だ。シベリウスに限らない。音楽に限らない。絵画も小説もそうだ。ぼくらには作品が与えられる。

● アンコールは,シベリウス「カレリア組曲」から「行進曲」。このアンコール曲に至るまで,今回の那須フィルは,間然するところがなかったように思う。
 ふっと気が抜けてケアレスミスをするなんて,どこのオケの話?って感じだね。

● 田中さんの指揮はこれが2回目になる。すっかり那須フィルの顔になっているし,田中人気は客席にも浸透していたようだ。受け入れられている。
 あと4回は彼女の指揮で那須フィルの演奏が聴けることになる。これはね,聴いておくべきですよ。