2016年1月31日日曜日

2016.01.30 東京大学音楽部管弦楽団 第101回定期演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● 開演は午後6時半。座席はSとAの2種で,Sが2,000円。S席チケットを事前に購入していた。

● 今回はオール・フランスで,曲目は次のとおり。指揮は山下一史さん。
 プーランク バレエ組曲「牝鹿」
 ドビュッシー 海-管弦楽のための3つの交響的素描
 フランク 交響曲 ニ短調

● 「牝鹿」の演奏が始まって,気がついたら,自分,笑っていた。声を出さずに(当然だ)笑っている自分に気がついた。
 笑っちゃうほど巧いんだもんね。これだけ巧いと笑うしかないでしょ,的な。

● 昨年11月の「第6回音楽大学オーケストラ・フェスティバル」で,山下さんは藝大を指揮していた。そのときの曲は,R.シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」。
 さすがに藝大と比較されたのでは,東大オケも霞むことになるのだろう。が,山下さんに訊いてみたいと思った。藝大とこの東大オケと,どちらかひとつを1年間預けるから思いっきり鍛えてやってくれ,と言われたとしたら,どちらを引き受けたいと思いますか。

● まぁ,藝大なんでしょう。なんでしょうけど,ひょっとして東大オケのほうが鍛え甲斐があるとお答えになるかもしれないぞ,と思わせるものが,この学生オーケストラにはある。
 何なんだろうなぁ,この本格的な構えは。正統派というのか,正調派というのか,スッと中段に構えて隙がない。そういうイメージなんですけどね。

● ドビュッシーの「海」。この作曲家は数十年前に吉行淳之介のエッセイを読んで知った。が,ドビュッシーのCDは何枚か持っているんだけど,依然として最後まで聴き通せるようにはなっていない。
 ぼくのような,理屈というか既存の仕組みというか,そういうすでにあるものによりかからないと不安を感じるタイプ(基本的に知的に怠惰なのだと思うが)には,苦手な作曲家のひとり。ひょっとすると,“印象派”という言葉に邪魔されているのかもしれない。
 感覚,感性で現実を選り分けて進んでいける人には,面白いあるいは楽しい作曲家なのだろうな。

● 音楽って鑑賞の作法のようなものがあるんだろうか。最低限,これは知っておいたほうがいいというのはあるにしても,いわゆる作法はないのだろうね。
 自分がいいと思う曲を自分なりのやり方で聴いていけばいいものだろう。そうしているうちに,自分でも予想しなかった方向に展開することがあるだろう。それに任せていけばいいものだと思っている。
 苦手を克服しようとあまり思いすぎないほうがいいようだ。

● フランクの交響曲は,プログラムノートの曲目解説が非常に参考になった。そうなのか。当初は不評だったのか。不評の理由はドイツ圏から影響を受けていると思われたところにあるんだろうか。
 たしかに,そう言われれば,フランス的な軽さや華やかさからは遠い位置にあるかもしれないな。
 ただなぁ,フランス的という言い方じたいが,結論の先取りみたいな。フランス的とは何かという検証を経ていない,あるいはきちんと定義していないまま,ぼくも今使ってみたんだけど。

● という思考形式って,法律家的ですかねぇ。そういう形式にとらわれてしまうってこと自体,フランス音楽との相性がよろしくないってことになるのかね。
 いや,そんなことはない。そういう皮相かつ単純な話じゃないでしょうね。

● ともかく,フランクの交響曲,曲としても聴きごたえがある。加えて,この管弦楽団の演奏だ。最初から最後まで間然するところがない。
 ジェットコースターよろしくオオーッと思っている間に終わっていたという感じ。
 アンコールはラヴェル「マ・メール・ロワ」から「妖精の園」。フランスを堪能した。あとは,こちらの堪能能力(?)をあげること。

● にしてもだ。これだけの演奏をやってのける大学オケがある。そのことはもう前から知っているわけだけれども,聴く度に驚きますな。
 定演は年に1回。注力してくる時間と集中が半端ないわけだろう。ギュギュッと圧縮してくるその圧が違う。それでもってこういう演奏を聴けるのであれば,あえてプロの演奏を聴きに行かなくてもいいかなぁとも思ったりする。
 この演奏回は,毎回,満席になる。同じように思っている人は多いはずだ。

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