2016年1月12日火曜日

2016.01.09 新山詩織ミニ・ライヴ

山野楽器銀座本店

● 銀座の中央通りをフラフラと歩いていた。ら。山野楽器の前に人だかりができていた。新山詩織のミニ・ライヴが始まるところだった。そんなに遅い時間じゃなかった。午後の3時半だったか。
 ちなみに,この時点で新山詩織って名前をぼくはまったく知らない。なのになぜ立ちどまったかというと,そこに何枚も貼られていた彼女のポスターに惹かれたんですかねぇ。

● 人垣から少し離れたところに立って,彼女の登場を待った。
 ギターを抱えて新山詩織,登場。最初に歌ったのは『絶対』。
 当然,初めて聴くので,彼女がMCで語ったタイトルをそのまま書いているわけだけど。

● 埼玉県出身。19歳のシンガソングライター。
 シンガソングライターって,自称も含めると大変な数いると思うんだけど,彼ら彼女らに抱きがちな不満は言葉の使い方の甘さなんですよね。おまえに言われたくねーわ,ってことだろうけどさ。
 要するに,歌詞が緩いというか,ギュッと詰まった感がないというか。もちろん,例外はある。尾崎豊,さだまさし。福山雅治も巧いと思う。

● ともあれ,そういう次第なので,ぼくはまず歌詞に気がいってしまう。
 で,彼女の歌詞はどうなのか。控えめな表現のように思った。もともとそういう性格なのか。つぶやくような。ちょっと自信なさげに自分の意見をいうような。つまり,悪くないんじゃあるまいか。
 それで聴衆を乗せていけるのか。不思議なことに(いや,不思議でも何でもないのかもしれないけど),これは聴衆を乗せるのに支障になることはないんだよね。

● 次は,『ゆれるユレル』。彼女のメジャーデビュー曲らしい。
 この世界でのしあがっていくのに必要な要素って何なのだろうなぁ。ルックスが良くて歌唱力があること?
 それだけでも大したものだ。が,それだけではダメなのだろうな。曲の構想力とか作詞の才能とか,そういうものも当然必要だろうけど,それも十分条件ではないように思われる。

● ひとつ思ったのは,次に歌った『今ここにいる』について彼女が語ったことからの連想なんだけど。
 この曲の詞は中学生のときにできていたらしい。その頃,友だち付き合いが上手くなくて,勉強にもやる気がしなくて,っていう生活をしていたそうだ。そういう時期にできた歌詞。

● この話を聞いて,見城徹さんが書いていたことを思いだしたんですよ。見城さんは林真理子さんとの共著『過剰な二人』(講談社)で,自らが担当した作家について,次のように書いている。
 彼らとの付き合いが深まるにつれ,僕ははっきりとあることを自覚した。それは,「この人たちは,書かずには生きていけない」ということだ。 彼らは自分の中に,染み出す血や,それが固まったかさぶたや,そこから滴る膿を持っている。それらを表現としてアウトプットしなければ,自家中毒を起こし死んでしまうのだ。 それだけのものは,僕にはない。書かなくても,僕は生きていける。(p48)
● 同じことが歌手についても妥当するのだろうか。要するに,歌う以外に生きる術がないということ。そのことが,その世界で生き抜いていく絶対条件なのかもしれない。
 普通にサラリーマンやOLもやれるような人だと,なかなか厳しいのかも。彼女はどうなのだろうか。

● あとは,芯の強さと肉体的なタフさか。MCなどは訓練と慣れでどうにかできるはずだ(現状で下手だというわけではないが)。
 登場して瞬時に客席を掴む,いうところの掴みってやつ。これは天性のものなのだろうが,彼女はすでに備えているように思われた。

● 最後は『隣の行方』。彼女の20歳の誕生日である2月10日に出ることになっている新曲。
 以上の4曲。ほんとにミニ・ライヴだったけれども,クラシックやジャズ以外のライヴはこれが初体験になる。ひょっとしてひょっとすると,この偶然の機会が,そっち方面の音楽も聴くようになる契機になるやもしれぬ。

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