2014年6月25日水曜日

2014.06.22 ベルリン交響楽団 ベートーヴェン・交響曲チクルス-4

栃木県総合文化センター メインホール

● 開演は午後4時。8番と9番。
 ちなみに,この4回目が観客が最も多かった。地元の合唱団が登場するので,彼らの知り合いや家族が来たんだろうね。

● まず,8番。
 最初のフレーズがどう聞こえてくるか,これで決まってしまう。これが姿を変え,形を変えて,何度も出てくる。これでもかっていうくらいに畳みかけてくる。ベートーヴェンってそうですよね。5番も6番もそうだし,ヴァイオリン・ソナタの9番もそうだし。
 この畳みかけが気持ちいいんですよねぇ。その最初の一撃が,だから,とても重要になる。

● 前日の初っ端,1番を聴いて,この楽団に対するこちらのリスペクトは完成した。先ほどの6番と7番でゆるぎないものになった。
 その状態で聴く8番の最初。タッタラタララーン,タララララララー。
 まぁね,生きてて良かったとは言いませんよ。そこまでは言わないけれども,聴けて良かったとの思いは痛切にこみあげてきた。

● つながりがいいと感じた。間合いがいい。演奏が途切れる瞬間が当然ある。楽章間は言うまでもない。切れるんだけど,その前後が繋がっている感じ。
 いい悪いじゃなくて,ずっと繋がっているっていう感じね。スタミナの問題だと思う。奏者にスタミナが豊富にあるんだと思う。

● ふっと思った。お金が欲しい。1億円欲しい。何に使うか。
 完全防音の部屋をひとつ作る。そのうえでオーディオ装置に惜しみなくお金を注ぐ。電気も家の配電盤から分岐するんじゃなくて,電線から直接,専用で引きこみたい。
 その部屋にこもって,大音量でCDを再生したい。そうまですれば,CDでもこの味わいを再現できるんじゃないかと考えた。
 てな妄想に浸ったりもしながら,聴いてましたよ。

● 最後は「第九」。
 第1楽章はベートーヴェンの頂点だとぼくは思っている(反論は受け付けない)。そこで展開されるのは宇宙創成の物語だ。ビッグバンだ。何もないところに宇宙が生まれる(ビッグバン以前も無ではなかったらしんだけど)。いかな万能の神でも,この大業は一発では決まらない。何度ものトライアルを強いられる。神も苦悩するのだ。
 というような物語を,ぼくは作ってしまっていて,なかなかそこから自由になれないでいる。っていうか,自由になろうとしていなくて,CDを聴きながら脳内に勝手な妄想を作りだして遊んでいる。
 今回は存分にその妄想遊びを楽しむことができた。演奏がいいんだから,上質な妄想(?)がどんどん湧いてくるわけですね。

● (ぼくのイメージでは)第2楽章以降は人間の話になる。でね,ぼくのようなタイプの人は,純粋音楽ってたぶんダメなんでしょうね。楽しめないんじゃないかと思うんですよ。
 音楽を音楽として楽しむ能力が弱いか,あるいはまったくない。

● 第2楽章冒頭のティンパニの一打が印象に残りましたね。鮮やかな捌き。目が醒めるようなっていうか。
 この楽章はティンパニが主役。すごいもんだな。もっと具体的に言えればいいんだけれども,ぼくの鑑賞能力だとすごいもんだなのひと言で終わってしまう。

● 第3楽章の前に,ソリストと合唱団が入場。
 ソー二ャ・シャリッチ(ソプラノ),シュタイン・マリエ・フィッシャー(アルト),アッティリオ・グラセール(テノール),トマシュ・ヴィヤ(バス)の4人と,栃木県楽友協会合唱団の皆さん。

● これまで何度か聴いた「第九」の演奏会では,合唱が管弦楽を消してしまうことがあった。合唱のボリュームがすごくて,管弦楽の演奏が聞こえなくなる。
 年末に多く催行される「第九」では合唱団が主催者であるものが多い。合唱が主体。そのためにオーケストラを雇う。あるいは借りる。
 人の声が持つ問答無用の説得力。それに加えて,大編隊の合唱団。合唱はすごいんだけど,交響曲はどこに行っちゃったんだよ,ってことになる。過ぎたるは及ばざるがごとし,ということもある。

● しかし,今回はそういうことはなく,管弦楽がしっかりと聞こえていた。
 湿った空気と声楽は相性が悪いのかもしれない。空気が声を吸いとってしまうとか。ソリストの声も同じだったから。ぼくが座っていた席が,声の通り道から外れたところにあっただけかもしれないんだけどね。
 でも,結果において,これで良かったと思う。合唱が弱かったとはまったく思わない。力があった。練習の成果なのだろう。必要以上に大音量じゃなかったというだけだ。
 管弦楽とよく絡んでいたし,まったくもって何の不満もなし。

● 電気というものが発見されて,蓄音機ができて,音をコピーすることができるようになった。その恩恵は計り知れない。それがなかったら,ぼくのような者がこうして音楽を聴きにくるなんてことはあり得なかったはずだ。
 なんだけれども,その録音技術をもってしても,合唱だけは十全にコピーするのは難しいのかなと感じている。

● リアルの合唱が発生させる空気の震え。耳ではなく皮膚に届くもの。ここまでコピーするのはさすがに難しいのだろう。
 不可能ではないのかもしれない。こちらの受容器は二つだとしても,発生源はひとつなんだから。あるいは,環境を整えれば,今のCDでもそこまで再生できるのかもしれない。
 そのあたりはよくわからないんだけれども,ぼくが置かれたj状況下では,生で聴く機会をできるだけ確保するのが,現実的な対応というものだ。

● これで終わってしまった。「第九」の後とあっては,さすがにアンコールはない。これで終わってしまったんだなぁ。
 ステージで演奏しているオーケストラと自分との距離が,どんどん短くなるわけですよね。親近感っていうんですか。トルコ顔だの長髪だの黒髪だのが,個性を持って勝手に動きだしてるわけでね(セカンドヴァイオリンのトップも絵的に印象に残った)。物理的にも近い位置で聴いていたからだよね。
 ともかく。2日間のお祭りが終わってしまったよ,と。

● ライヴを聴くようになった頃の初心(?)を思いだすことができましたよ。ステージに立つ人たちが,今日までそこに込めてきた時間の長さに敬意を表すること。そこから出発すること。
 言わず語らずのうちに,こちらの思いをその地点に引っぱって行ってくれるような演奏でしたね。その意味でも,ありがたい演奏会だったなと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿