2013年8月25日日曜日

2013.08.24 合奏団ZERO第11回定期演奏会

杉並公会堂 大ホール

● 合奏団ZEROの演奏会は,昨年の夏に続いて今回が2回目。開演は午後2時。前回は入場無料のカンパ制だったけれども,今回は1,000円のチケット制。当日券を購入。
 実際は,チラシを持参すれば当日券と引き換えるというわけで,実質,入場無料に近かったんですけどね。他に,招待状のハガキもあるわけだし。集客と費用負担の狭間でどこにポジションを置けばいいのか,楽団としても悩んでいるようでもある。

● 部外者の気楽さで言わせていただけば,これだけの演奏を披露しているわけだから,基本,有料チケット制でいいと思う。
 自分を棚にあげていうと,無料にすることの唯一の問題点は,客質が下がることだ。お金を払ってでも聴きに来たいというお客さんだけを相手にすればいいと,割り切ってしまうのは難しいのか。
 東京ではあまたのアマオケがあって,それぞれ演奏会を開いている。対して,観客(あるいは観客予備軍)は限られている。地縁,出身縁をもたないところは,集客に悩む。のだけれども,数多きがゆえに尊からず。
 というのは,綺麗事にすぎますかねぇ。過ぎるな,たぶん。

● 今回は,R・シュトラウスの「四つの最後の歌」とラフマニノフの交響曲第2番。エキストラも入れて,金管も揃った普通のオーケストラ編成。

● 「四つの最後の歌」について,常任指揮者の松岡究さんが,「音楽をやるものとして「本当に出会えてよかった,音にする喜びをこれほど感じられる作品はないといっても過言ではない」と心から思えるような充実した作品」と紹介している。
 歌詞の和訳もプログラムに掲載されている。歌詞の意味はわからなくても鑑賞に支障はないものでしょうね。逆に,音を聴いて何も感じなければ,歌詞の意味がわかったところで,やはり何も感じないものでしょ。
 ソリスト(ソプラノ)は松尾香世子さん(この楽団とは過去にも何度か共演しているようだ)だから,何も感じなかったからといって,その責めを歌い手に帰すわけにはいかない。自分の感性を疑うしかない。

● で,ちょっと自分の感性の鈍さかげんを疑ってますね,今。
 じつは,バッハの「マタイ受難曲」を聴いても,なんだかピンと来なかったりする。脳細胞の配線の大事なところが何ヶ所か切れているのかもしれない。
 「シャコンヌ」の管弦楽版や「ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲」を聴くと,これはすげぇと思えるんですよ。ところが,どうも声楽曲には反応が鈍い。たんに経験不足?かもしれないんだけど。たくさん聴くようにすれば,何とかなるのかねぇ。

● ピアノがあまり好きじゃない,っていうかよくわからない,ぼくのような者にとっては,ピアノ協奏曲ではなくて,この交響曲2番がラフマニノフを代表するもの。
 この曲を高い水準の演奏で聴けるとすれば,そのためだけに生き長らえる価値がある。とまで言ってしまうと,やや過剰表現になってしまうけど。

● 「おもしろき こともなき世を おもしろく すみなすものは 心なりけり」というのは,反論しようのない真理だけれど,おもしろくすみなすための具体的な手がかりがあるのとないのとでは,大変な相違だ。
 ぼくの場合はこうした演奏を聴くという手がかりが与えられている。かたじけなくもありがたいことですよ。

● 透明さとか深みとか,諧謔とか洒落っ気とか,曲によっては故意の稚拙さとか,演奏に求められるものはいろいろとあるんだろうけど,ひとつを建てれば同時に他も建つ,ということがあるに違いない。
 濁りがなければたいてい深みも出る。少なくともぼく程度の鑑賞レベルだと,そういうことが多い。
 で,この合奏団ZEROの演奏には,濁りがない。聴いてると,しみじみしてくる。それで充分すぎる。

● 作品は完成すると同時に,作者から切り離されて存在するもの。作曲家がその曲に何をこめたかは作曲家の問題で,聴く側には関係のないことがらだ。
 もちろん,そういうことを知っていると,深く鑑賞できるのかもしれないけど,基本は聴く側がそれぞれの甲羅に合った穴を掘りつつ聴くことになる。

● 中にはとんでもなく深い穴を掘る聴き手もいるんだろうな。そこまで深い穴を掘らせる曲や演奏もすごいけれども,第一にはその聴き手の技ってことになるんだろうね。
 理屈的には,作曲家が掘った穴よりもさらに深い穴を掘って聴く聴き手も存在しうるわけで,そういう意味では,鑑賞っていう行為はたんなる受け身ではないんだろう。
 ただ,そうした聴き手はめったにいないっていうだけで。

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