2018年2月18日日曜日

2018.02.17 陸上自衛隊第12音楽隊演奏会

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 開演は午後2時。入場無料。事前に往復はがきで申込んで,整理券をもらっておく方式。
 ぼくはこの演奏会があるのを知ったのが遅くて,応募締切日の2日前にはがきを投函したんだけど,運良く“当選”になった。
 宇都宮で催行されたときは,あえなく落選したことがある。今回もほぼ満席だったから,人気があるということなんだよね。

● 高度な水準の吹奏楽を聴こうとすれば,東京佼成やシエナなど,いくつかあるプロ吹奏楽団か,そうでなければ自衛隊音楽隊ということになる。
 そのことを皆,知っているんでしょうね。だから,言っちゃ悪いんだけど,こういう田舎でやるときが狙い目。“当選”の確率が高くなるから。
 じつは第12音楽隊の演奏を聞くのはこれが初めてではない。2010年2月に高根沢町町民ホールで聴いている。このときは,事前申込みも必要なくて,当日フラッと行けばよかったんだよね(ただし,ホールは満席になった)。

● 入場の際に荷物検査(?)があった。ディズニーランドでやっているようなやつ。それと君が代斉唱があった。
 あ,あと主催者挨拶があった。ぼく一個は,その演奏会がどのようなものであれ,演奏会に演奏以外のものがあってはならぬと思っている。まして,リーフレットに主催者挨拶が載っているのだ。それと同じことをステージで喋ることに何の意味があるのか。
 地元選出の国会議員や首長を招待している以上,そういうわけにもいかないのではあるけれども,それでもなお,演奏会のステージに演奏とは独立した“言葉”を入れるべきではないと,どうも頑なに思っているんだな,ぼくは。

● プログラムは次のとおり。
 バーンスタイン 「キャンディード」序曲
 行進曲メドレー(旧友 星条旗よ永遠なれ 軍艦行進曲)
 イルジー・パウエル ファゴットコンチェルト
 オッフェンバック 喜歌劇「天国と地獄」序曲

 R.シュトラウス ツァラトゥストラはかく語りき
 ヴァン・マッコイ アフリカン・シンフォニー
 渡邊浦人 必勝祈願太鼓
 森田一浩編 すべてをあなたに
 佐久光一郎編 Paradise Has No Border
 グレイテスト・ヒッツ・山口百恵
 日本レコード大賞 青春の70年代

 アンコール:いずみたく 永六輔(詞) 見上げてごらん夜の星を

● 「キャンディード」序曲で水準は了解。これをタダで聴けるとはラッキーだ,と下世話にも思ったよ。
 行進曲の中でも,この3つは淘汰に耐えて残っている代表的なもの。ずっと聴いていると陶然としてくる。たしかに,音楽の力というものがあると思わせる。悪くいえば神経を麻痺させる。これもいい演奏で聴けばこそなのだが。

● ファゴットコンチェルトといえばやはりモーツァルトが有名だと思うんだけど,ヴィヴァルディやヘンデルなど,曲そのものはけっこうな数がある。が,モーツァルトのものも含めて,聴く機会がほとんどない。
 まして,パウエルのこの曲は,存在自体をぼくは知らなかった。CDも持っていない(CDはちゃんと出ている)。たぶん,この曲を生で聴くのは,これが最初で最後だろう。貴重な機会をものにできた。
 「天国と地獄」序曲は,コンミスのクラリネットの清けき響きが聴きどころでしたか。微妙なさじ加減を誤らないということ。

● 自衛隊の広報が音楽隊の仕事の大きなひとつだからか,サービス精神に富む。これでもかというほど,客席サービスに努める。
 自分たちもそれを楽しんでいるようでもある。音楽を業とするほどの人は,だいたいノリはいいのであろうけどね(数の中にはそうではない人もいるかもしれない)。

● 彼らが想定する客席のレベルは,かなり低いところに設定されているようだ。多くの経験を通じて,このあたりだとわかっているのだろうね。
 R.シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」は30分程度の曲のはず。それを導入部だけで終わりにしたのも,全部聴いてもらうのは無理だと考えたからかなぁ(ま,時間の都合なんだろうけどさ)。

● 残念ながらというか,それがピタッと当たっているので,やることなすこと,ことごとく聴衆のツボにハマる。
 ぼくもまた,最も印象に残っているのが,“第12音楽隊の山口百恵”だったりするから,彼らが想定した聴衆の一人であることは,歴然としている。うぅ~む・・・・・・

● その“山口百恵”。山口百恵役を務めたのは田中知佳子さんとおっしゃる。彼女,本職(?)はホルン吹きのようなんだけど,山口百恵を掴んでいる感じなんだよね。掴みが上手い。山口百恵になりきると決めて,そこにケレン味がない。
 書道でいう臨書,手本を見ながら字を書くことだけれども,その臨書の意臨が巧みといいますか。たとえて言うなら,そんな感じ(ちょっと褒めすぎかも)。

● バラエティにしてみたり,芸人になってみたりっていうのも,演奏水準が高度だからこそ,結果において活きることになるのであって,下手クソにそれをやられると,ぼくなら腹を立てる。
 ひょっとすると,自衛隊の音楽隊というだけで拒否反応を示す人がいるかもしれないと思うんだけども,そういうことでは大きな楽しみを取り逃がすことになるかもよ。

2018年2月13日火曜日

2018.02.12 東京大学歌劇団 第48回公演 チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」

三鷹市公会堂 光のホール

● 開演は午後3時。入場無料(カンパ制)。

● 歌劇は総合芸術と言われるけれども,演劇的要素が強い分,舞台の設えや演者の衣装など,視覚に依存する部分が大きくなる。視覚の支配力が増すほど,それは大衆性を帯びやすくなる。抽象度が下がって,具体度が上がるわけだから。
 視覚とはそういうもので,音楽に関する限り,視覚は抽象度を下げる働きをする。たとえば管弦楽に比べると,観客側の参入障壁は低くなるはずだ。
 また,そうならなくては,つまり多くの観客を動員できなくては,催行に要したコストの回収が難しくなるだろう。

● オケはピットに入って,客席からは見えなくなる。舞台の演者がフロントで,オケは黒子になる。
 それを残念に思う人もいるかも。歌劇はコンサート形式がいいと思っている人。っていうか,ぼくにもその気がないわけではないんですよね。

● さて,「エフゲニー・オネーギン」。
 ストーリーはいたって単純だ。昔,手ひどくふってやった田舎娘が,艶やかな淑女に変わっていた。サナギが蝶になったように。そこで,蝶になった彼女に自分から言い寄ってみたものの,彼女から手ひどく拒絶されて終わる,という話。
 ストーリーは単純で骨太である方が,歌劇にしやすいのだろうね。単純である方がいろんな綾を付けやすいのかもしれない。

● その単純で骨太なストーリーをどこに求めるかといえば,男女の恋愛が一番だ。ワーグナーという重大な例外があるし,歌劇という歌劇がすべて恋愛譚であるわけではないのだろうけど,まぁ恋愛ものが最も多いよね,と。
 となると,劇中人物の年齢はだいぶ若く設定しないといけなくなる。「エフゲニー・オネーギン」ではだいたい二十歳前。恋愛をするにも能力が必要だ。恋愛能力がね。それは誰にも与えられているモノだけれども,使用期間は限定されている。10代,せいぜい20代の前半まで。それを過ぎると恋愛能力は大きく低下する。

● いや,そんなことはない,と言われるか。「自分は30歳になるが,この歳になると女(男)を冷静に見られるようになる。いっときの衝動で突っ走ることがなくなるから,むしろ幸せな結婚ができそうな気がする」,と。
 いっときの衝動で突っ走るのを恋愛というのだ。それができなくなったのは,恋愛能力が低下したからだ。今のように結婚年齢が30歳ということになると,文字どおりの恋愛結婚は皆無のはずだ。本人が意識するしないに関わらず,打算と計算で結婚しているはずなのだ。
 もちろん,それでいい。恋愛のみでした結婚は必ず破綻に至る。恋愛と結婚は関係ない。結婚は打算ですべきものだ(しなくてもいいものだ)。

● 恋愛能力がなくなっているのに,打算や計算ができないサンジューバカ(男性)が多すぎるのが,むしろ問題じゃないのか。
 ついでに申せば,女性は冷徹なほどにこの種の計算をしていることも知っておくがいい。これができない女性はいない。
 もっとも,あり得ないほどに自身を高く見積もってしまうのも女性性の特徴で,ときに唖然とさせられることもあるから,そのことも心得ておくように。

● しかし,ドラマになるのは恋愛だ。花火のようなものなのだから,大体において絵になるのだ。自身も経験しているだろうし,そうじゃなくても身近にその例を知っているだろうから,感情移入もしやすい。
 何より女性が計算をしないで突っ走るのは,唯一,恋愛に落ちたときだけなのだから,恋愛は物語にしやすいのかもしれない。何があってもおかしくないのだから。

● したがって,とつないでいいのかどうか,恋愛には必ず愚の臭いが伴う。純と愚は同じものの別名だ。
 この歌劇においても,たいていの歌劇がそうであるように,ストーリーの肝要なところは,登場人物の短慮かおバカが引き起こしている。そこが人間らしいところだと言えば言えるわけでしょう。

● さらに脱線。
 幸か不幸か,君が恋愛に落ちてしまったとする。あるいは,その瀬戸際にいるとする。この際,心得ておくべきことが2つばかりある。
 恋の駆け引きというが,この点において男は女の敵ではない。横綱と幕下以上の差がある。ゆえに,駆け引きで勝とうとしてはいけない。もし勝ったと思える局面があったのなら,それはそうなるように彼女が誘導した結果なのだ。
 だから,恋愛においては,自分が彼女に惚れている以上に,彼女に惚れさせなければいけない。駆け引きはそもそも成立しないものだと考えよ。

● もうひとつ。他者のために自分を殺せる度合いは,女の方が男より高い。ということは,恋愛関係においては男が優位なのかというと,まったくそうではない。
 逆だ。女に覚悟を決められたら,普通の男ではまず太刀打ちできない。必ず,女が男を搦め捕る。
 何を言いたいのかというと,この女性はピンと来ないなとわずかでも思うのであれば,初期段階で離れよ,ということ。せっかくだからちょっとイジッてみようかっていうのは,もちろん彼女に対するこの上ない無礼であるわけだけれども,それ以前に少々以上に危険すぎることなのだ。御身大切に。
 「ドン・ジョヴァンニ」になろうとしてはいけない。君にその資質はないのだ。たぶんね。

● 今度こそ,さて,「エフゲニー・オネーギン」。
 じつは,この歌劇のCDもDVDも持っている。だけど,何というのか,封を開けていないんですよ。
 当然,聴いたことも観たこともない。ので,今回の公演で初めて「エフゲニー・オネーギン」とはこういう歌劇だったのかと知ったわけなのだ。
 だから語る資格はないんですよね。舞台の設えがどうだったか。演出に工夫を加えたようなんだけども,それがどうであったのか。そういうところに口をはさむ資格は1ミリもない(と言いながら,はさんでしまうわけだが)。

● バレエについてはチャイコフスキーは燦然と輝く存在だけれど,歌劇においてはチャイコフスキーに限らず,ロシア産のものって,あまり取りあげられる機会はない(ぼくが知らないだけで,あるのかもしれない)。
 初手で観客を鷲づかみするインパクトに欠けるんだろうか。管弦楽曲ではチャイコフスキーはそれを得意としている印象があるんだけど。

● 歌劇ってやっぱり歌い手なんだよね。演出でどうにかできる部分は限られる。玄人筋には重要と捉えられることがあるにしても,ぼくレベルの,つまりほとんどの聴衆にとっては,気づくことすらできないことが多いだろう。
 演出が歌い手に影響を与え,その結果,歌い手が客席に届けるものが変わってくる,ということはあるかもしれないけれども,演出が直に客席と対峙することはあまりないんでしょうね。どうなんだろ。

● 主役級3人のソプラノ,バリトン,テノールはそれぞれ説得力があった。中でも,ソプラノの高音部の抜け方が特に印象的。天性のものでしょうね。ここを努力でどうにかできるとは思えない。
 オネーギン役のバリトンは,巧い以前にていねいだった感じ。しっかり準備を重ねてきたのだろう。
 フィリピエヴナを演じた大島麗子さん。この歌劇団の公演を初めて観たのは2013年1月だった。演物は「カルメン」で,そのカルメンを演じていたのが,当時JKだった大島さん。さすがの安定感。

● タチアーナがオネーギンに辛い言葉を浴びせられて,悲嘆に沈む。ここがおそらく,この歌劇の最大の見せ場。
 その時の表情や姿をどう作るか。演者も演出者もここが腕の見せどころなんでしょ。今回のがその解答のひとつ。正統派というか。
 テレビドラマや映画ではないのだから,抑えた演技というのは選択肢に入ってこないように思うんだけど,他に解答はなかったか。おそらく,ここはいろいろと議論したところなのだろうけど。

● 学生さんのエネルギーがギュッと濃縮されているのが見て取れて,そのエネルギーに圧倒される快感がある。
 それは終演後も続く。キャストが並んでお客さんを出口で見送るわけだ。達成感と安堵感に包まれた彼らが発するエネルギーは並じゃない。まともに受けたら跳ばされそうな気がする。彼らから離れたところを歩かなきゃいけない。

● 歌劇はもう,この歌劇団の年2回の公演を観るだけでいいのではないかという気がしている。
 いや,昨年はこの歌劇団の講演を1回観ただけで終わっているんだけどね。

2018年2月5日月曜日

2018.02.04 栃木県交響楽団 第104回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 開演は午後2時。チケットは1,200円。これは必ず前売券を買っておく演奏会のひとつ。
 曲目は次のとおり。指揮は小森康弘さん。
 モーツァルト 歌劇「魔笛」序曲
 モーツァルト クラリネット協奏曲 イ長調
 ラフマニノフ 交響曲第2番 ホ短調

● 30分前に開場。で,開場時点では長蛇の列。これを見ると入りきれるのかと思うんだけど,人間の視覚というのは,客観性を欠くものだね。オッと思うと,実人数よりも多いと捉えてしまう。
 勝手に自分の定位置と決めている,2階右翼席の奥(最も中央寄り)に座ることができた。

● メインはラフマニノフの2番。が,今回に限ってはモーツァルト「クラリネット協奏曲」を聴くために来た。CDで最も多く聴いているのが,たぶん,この曲だ。
 人類の至宝だと思っている。世界遺産などというレベルではない。そんなものと比べるわけにはいかない。
 言ってしまおうか。モーツァルトのこの曲に比べれば,日光東照宮などゴミも同然だと思っている。

● モーツァルトの天才をもってしても,この曲が顕現するには,彼の最晩年(といっても,35歳)を待たねばならなかった。
 突き抜けた明るさが全編をおおう。明るさをいくら煮詰めたところで,明るさを尽き抜けることはない。突き抜けるためには,幾分かの悲しみ,諦念がなくてはならぬ。その悲しみや諦念を濾過する辛い過程を踏んでいないと,突き抜けることはできないものだろう。

● その悲しみを湛えた透明感が,真っ直ぐにこちらに迫ってくる。透きとおっていて,濁りというものがまるで見られない。その深い透明感がどうにも・・・・・・。
 その突き抜けた明るさと透明感を合わせると,高貴なる何ものかになる。第1楽章から第3楽章までのどこを切っても,その断面から高貴なるものが溢れでるように思える。

● 小林秀雄は「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」と言った。が,この曲においては,悲しみは疾走しない。静かにそこにたたずんでいる。
 あるいは,スピノザの神のごとく,この曲のあらゆるところに遍在している。

● 文は人なり,書は人なり,という言い方がある。その伝でいえば,曲は人なり,と言えるだろうか。モーツァルト本人は,エゴイスティックな俗物であったらしい。高貴なるものとモーツァルトは結びつかない。
 ○○は人なり,という言い方には,途方もない緩さ,ぬるま湯的な甘えがあるのかもしれない。人を磨けば作品もそれに相応して良くなるはずだ,というとんでもない楽観が。モーツァルトのこの曲を聴くたびに,そのことを思う。

● クラリネットのソリストを務めたのは,藝大1年生のときにコンセール・マロニエを制した近藤千花子さん。役者に不足はないと言うべきだ。
 が,この曲の出来を決めるのはバックの管弦楽だ。これはもう圧倒的にそうで,この曲の醍醐味は,管弦の音の粒の連なりが,渓流のごとく流れ下っていく様を味わえるところにある。特に第1楽章はほとんどそれに尽きるだろう。

● ゆえに,この曲に関する限り,管弦楽にわずかのミスもあってはならない。跳ねっ返りの解釈も要らない。限りなく保守的であってほしい。革新は無用だ。栃響はさすがであった。
 とはいえ,どうせ聴くなら名手のクラリネットで味わいたい。それもまた満たされたわけだ。
 しかし,わずかに,第2楽章の終わりに,やや不用意な収束を見せてしまったような・・・・・・いや,こちらの勘違いというか,無知がそう思わせるのかもしれない。あれで完璧なのかもしれないのだが。

● いや,堪能できた。大満足だ。ずっと息を詰めるような思いで聴いていた。終わったあとはボーッとしてしまった。そのボーッとした状態で,ラフマニノフの2番を聴いてしまった。
 ので,ラフマニノフの印象がほとんどないのは困ったことだ。イメージ喚起力が強い曲だとは思った。いろんなところにこの曲が使われるのには理由がある。
 反面,この曲を嫌う人もけっこういるのじゃないかと思う。ショスタコーヴィチはいいけれども,チャイコフスキーもラフマニノフもダメだと言う人,いるんじゃないかなぁ。

● というわけで,今回はクラリネット協奏曲がすべて。ぼくは極めて貧弱なオーディオ設備しか持っていないんだけど,いいやつがほしいなぁと思うことが,年に一度か二度ある。今日はそれにあたった。
 いいオーディオ設備を整えたうえで,CDでこの曲を聴きたいものだ。億のお金があればそうするんだが。いや,ほんとにね,そうしてCDを聴きながら,1億円なんて小銭だよ,なんてうそぶいてみたいものだね。

2018年1月31日水曜日

2018.01.28 フレッシュアーティスト ガラ・コンサート

栃木県総合文化センター サブホール

● このコンサートは,毎年この時期に「とちぎ未来づくり財団」が主催しているもの。「栃木県ジュニアピアノコンクール」と「コンセール・マロニエ21」の優勝者の披露演奏会。
 以前は毎年開催していたが,コンセール・マロニエ21が1回2部門実施から1部門に減らしたのにあわせて,2年に1回の開催に変えたようだ。

● というわけで,今回は昨年度と今年度のコンセール・マロニエ21の優勝者を迎えて実施。開演は午後2時。
 入場無料。事前に「とちぎ未来づくり財団」に申しこんで,整理券をもらっておく方式。

● 昨年度は声楽部門だった。第1位だった山下裕賀さん(メゾ・ソプラノ)が,声楽家は誰でもそうだけれども,にこやかな笑顔をふりまきながら登場。伴奏ピアノは鴇田恵利花さん。
 演しものは次のとおり。
 瀧廉太郎 花
 山田耕筰 あわて床屋
 中田喜直 霧と話した
 平井康三郎 うぬぼれ鏡
 チャイコフスキー 歌劇「オルレアンの女」より“さらば森よ”

● コミカルな「あわて床屋」の後に,実らなかった過ぎた恋をしっとりと思いだす乙女を演じて,再びピョンピョンと跳ねるような「うぬぼれ鏡」。
 この選曲はどんな理由によるものか。第一には客席サービスなのだろうけれども,自分で楽しむというか試してみるというか,そうした気味合いもあったのだろうと推測する。
 圧倒的な声量,どこまであるんだと思わせる音域,表情や仕草による表現力。異能の持ち主としか思えない。

● 今年度はピアノ部門。そこで圧倒的な存在感を見せた田母神夕南さんの,今回の曲目は次のとおり。
 ショパン エチュード
 ショパン 子犬のワルツ
 ショパン=リスト 「6つのポーランドの歌」より“5.私のいとしい人”
 ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第29番(第1楽章のみ)

● この選曲も客席サービスを意識したものかもしれない。栃木県ジュニアピアノコンクールの入賞者も一緒に演奏することは当然聞かされていたろうから,特にそれを意識したかなと思うんだけど,まるで当たっていないかも。
 この人の持ち味は何か。ぼくにはわからない。わからないなりに感じたのは,力感というか力強さだ。グイグイと押してくる。
 できうれば,「ハンマークラヴィーア」と称されるベートーヴェンのソナタをぜんぶ聴いてみたかったけれども,諸般の事情でそうもいかない。

● ひょっとすると,田母神さん,グレン・グールドの心境を味わっていたかも。つまり,聴衆がいなければもっといい演奏になったのに,と。ちょっと聴衆が残念だったかも。
 これはね,栃木県ジュニアピアノコンクールの入賞者と一緒にするのがいけない。彼ら彼女らの父兄や親戚が来るわけだから,どうしてもね。自分のお目当ての演奏が終わると,ゾロゾロと途中で帰っていくし。

2018年1月30日火曜日

2018.01.27 東京大学音楽部管弦楽団 第103回定期演奏会

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● 一昨年の第101回以来,2年ぶりの東大オケ。この楽団の演奏を初めて聴いたのは8年前。東大生って勉強だけじゃないんだなぁと,わりと強烈に感じたことを記憶している。
 ほかに特徴が2つあって,ひとつは男子比率が高いこと。もうひとつは,女子団員の美人度が高いことだ。育ちの良さそうなおっとりした感じの美女なのだ。君たち,色々と持ち過ぎなんじゃないのかい,と思うんだけどね。

● 開演は午後1時30分。チケットはSとAの2種。今回は当日券もあったようだけれども,この楽団の演奏会に関しては,チケットは前もって購入しておくのが吉。じつは,ぼく自身,当日券頼みで聴きに行ったところ,チケット完売を知らされる憂き目にあったことがある。
 というわけで,“チケットぴあ”を通して2,000円のS席を買っておいた。楽団に直接申しこむこともできるんだけど,前にちょっとした行き違いがあって(ほんのちょっとした行き違い),今回は“ぴあ”を通すことにした。

● 普通,定演といえば,1回だけの演奏だろう。が,この定演は同じ内容で二度開催。14日に東京芸術劇場でもやっているのだ。
 いつからそうなったのかは知らないけれども,おそらくチケットを買えなかったお客さんから,何とかしてくれという要望があったのだろう。あるいは,団員から出た意見かもしれないが。
 とにかく,人気があるということ。で,その人気の淵源は東大というネームバリューではない(と思う)。自分も東大にあやかりたいからとか,自分の子どもを東大に入れたいから子どもと一緒に来たとか,そういうことではない(と思う)。演奏そのものにある。

● 曲目は次のとおり。指揮は松元宏康さん。彼の指揮に接するのは,今回が初めてだ。
 レスピーギ 交響詩「ローマの噴水」
 リスト 交響詩「レ・プレリュード」
 ブラームス 交響曲第4番 ホ短調

● 「ローマの噴水」はピアノやハープのほかにオルガンまで加わるわけだから,オーケストラを超えると言いたくなるほどの大編隊になる。さすがにオルガンやハープは賛助を仰いでいる。が,この編成で求心点が揺らいでいない。
 それって普通じゃない? そこが揺らぐようじゃこの曲を取りあげちゃダメでしょ,と言われれば,それはそうなのかもしれないけれど,この安定感はただ事ではない。

● リストの「レ・プレリュード」も,ぼくのイメージでは取扱いの難しい曲に属する。ヘタに扱うと散らかりやすい。
 そうさせないためには,アンサンブルが緻密であって,その緻密さに狂いがないことがまず必要だ。ただし,それだけならさほど遠くない将来に,コンピュータがそういう演奏をやってのけてくれるかもしれない。

● 正確さに生気を吹きこまなければいけない。その生気を吹きこむもの。奏者の思いというのか集中というのか,本番までにやってきたこと,上手くいかなくて苦しんだこと,その他の一切合切がそうなのかもしれないけれど,技術ではないところの何ものか。
 それが演奏に乗らないと,演奏に生気が宿らないということがあるのかないのか。ぼくはあると思っているんだけども,東大オケは,その“吹きこむもの”を昇華させるのが巧いという印象がある。それも,図抜けて巧い。

● もっとも,この点に関しては,あまり巧くてはいけないのかもしれない。生気を吹きこむところまで,コンピュータができるようになるのかもしれない。というか,たぶんなるのだろう。
 しかし,囲碁や将棋で,プロ棋士がコンピュータに敵わなくなっても,人間同士の対局が魅力を失うことはないのと同様,生身の人間が演奏するのでなければ聴衆は納得しない。

● メインはブラームスの4番。第3楽章,第4楽章はほぼ完璧で,文句のつけようがない。力が漲っているのに,走り過ぎがみじんもない。音大の演奏ではないことが,にわかには信じがたいほどだ。
 第1楽章と第3楽章が終わったあとに,何ごとかを叫んだ人がいた。外国人だった。It's so cool と言ったように聞こえた。感に堪えたという趣があった。
 ぼくらは楽章間に拍手をしてはいけないというルールに縛られているけれども,この奇声(?)は悪い感じはしなかった。アリだな,これ,と思った。奏者にも力になったかもしれない。気がこもっていたから。

● この楽団のもうひとつの特徴。プログラム冊子の曲目解説だ。3つの解説が,それぞれ論文仕立てになっているところは,さすが東大というべきだろうか。
 これに食いついていける人はそんなに多くないと思われる。ひとつには格調が高すぎるからだ。
 が,無理に食いつこうとしなくてもいいかもね。演奏する側はここまで勉強しているのだ,と知っておくだけでよいのではないか。

2018年1月20日土曜日

2018.01.14 足利カンマーオーケスター ニューイヤーコンサート

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 今年の聴き初め。足利カンマーオーケスターのニューイヤーコンサートで幕開けだ。

● 足利はこと音楽に関しては,相当活発に動いている印象がある。2013年に「足利オペラ・リリカ」が発足した。これがどういうものなのか,イマイチぼくにはわからない。プロ歌手を育成するところなのか,最初からプロを集めてオペラを催行するところなのか。はっきりしているのは,足利市民会館の専属団体だということ。
 足利カンマーオーケスターも「足利市民会館の専属プロフェッショナル室内オーケストラとして発足」したらしい。ここまでやっているところは,県内の他市町にはないでしょ。うまくいくとは限らないと言われたろうけれど,もう5年が経過する。
 他に,毎年,N響が足利で演奏会を開催している。市からの働きかけがあってのことだろう。

● しかし,問題がひとつある。足利市側の問題ではなく,こちら側の。つまり,19時開演だと最終の黒磯行きに間に合わないのだ。その日のうちに家に帰り着くことができない。
 いくら北関東道路ができたとはいえ,ぼく的には車で足利まで行く気にはならない。車で走るのは片道50㎞が限度かなぁと思っている。車を運転してると,時間を捨てているような気がしてね。
 というわけだから,なかなか足利まで聴きに行くということにはならない。

● ところが,今回は,向こうから那須に来てくれる。なら,これは行くしかないでしょ,というわけで,出かけてみたわけなんでした。
 どんな演奏をするのか興味があったし。どんな人たちなのかも興味があったね。

● 開演は午後2時。チケットは2,000円。当日券を購入。
 曲目は次のとおり。指揮は大井剛史さん。
 モーツァルト 交響曲第36番「リンツ」
 ヴォーン=ウィリアムズ チューバ協奏曲
 J.シュトラウス ワルツ「春の声」
 J.シュトラウス 喜歌劇「インディゴと40人の盗賊」序曲
 J.シュトラウス シャンペン・ポルカ
 ヨーゼフ・シュトラウス ワルツ「オーストリアの村つばめ」
 J.シュトラウス ポルカ「観光列車」
 J.シュトラウス 皇帝円舞曲
 ちなみに,ヨーゼフ・シュトラウスとはJ.シュトラウスの弟。こういうふうに書き分ける習わしなんですかね。

● 前半が「リンツ」とチューバ協奏曲。チューバは田村優弥さん。田村さん,作新学院の(英進部というよりは)吹奏楽部を卒業して,藝大に進んだ。2015年のコンセール・マロニエ金管部門で第1位。
 その田村さんの軽快な捌きはお見事だと思うんだけど,どうも大井さんの指揮とオケが噛み合っていないように思えたんだが。何とはなしにノリが悪いような。指揮者もオケも。気のせいか。ひょっとして,大井さん,疲れている?

● それが解消されたのは,後半のニューイヤーコンサートに入ってから。こちらは,どの曲も流れるように過ぎていく。演奏する側も気持ちいいに違いない。
 Wikipediaによれば,ウィーン・フィルによるニューイヤーコンサートが始まったのは,「ナチス・ドイツのオーストリア併合によるオーストリア人の不満をためないよう」にするためだったらしい。当然,オーストリア人に馴染みがある曲で,コアなクラシック音楽ファンでなくても楽しめるものに仕立てられたわけだろう。
 胃もたれのしない,軽快な曲が続く。結果的に,新年早々のコンサートにはピッタリというかね。世界中にテレビ中継されるのも,同じ理由によるだろう。

● 下世話な推測なんだけど,放送料だけでも莫大な金額がウィーン・フィルに転がりこむんだろうな。年間収入の何割かをこれだけで稼ぐんじゃないか。
 だからこれはやめられないよね。ずっと続いていくだろうね。

● 昨日は足利で定演だった。ブルッフのヴァイオリン協奏曲があった。これは聴きたかったなと思う。だったら足利まで出て来いや,ってことだよなぁ。
 このオケのメンバーの中で一人だけ知っている人がいる。いや,知り合いだという意味ではなくて,演奏を聴いたことがあるという意味ね。コントラバスの廣永瞬さん。2012年のコンセール・マロニエ本選に出ていた。

● アンコールはお約束(?)のラデツキー行進曲。YouTubeでカラヤンが指揮している演奏を見る(聴く)のは,日々の小さな楽しみ。生で聴けるのは大きな楽しみか。

2018年1月12日金曜日

2018.01.12 間奏57:WALKMANをずっと使っていない

● ということは,コンサート以外に音楽を聴いていないということだ。ダメじゃん,ぜんぜん。
 128GBのmicroSDカードを入れているのに,パソコンから転送した楽曲はいたって少ない。もっとガンガン入れて,ガンガン聴かなきゃなぁ。

● なぜWALKMANから遠ざかってしまうかというと,プレイリストを整理していないからだ。なぜプレイリストを整理していないかというと,SONY謹製の転送ソフトウェア「Media Go」がどうも使いづらい(と思っている)からだ。
 iTunesを使えるようにしてくれるとありがたいんだけど,そうはならないだろうな。敵に塩どころか,小判を送るようなものだものな。

● iTunesの解説本は“500円シリーズ”にもあったと思う。が,「Media Go」の解説書なんて見たことがない。ネットで解決するから,紙の解説本はなくてもいいんだけどね。
 で,ネットの解説ページを見て,やってみるんだけど,どうもうまくいかなくてね。どんだけアホなんだ,おまえは,と言われますな。

● といってもですよ,楽曲データを入れている外付けのハードディスクを「Media Go」が認識しないんですよ。
 だものだから,その先に行けないんですよ。

● ので,WALKMANのmicroSDに直接,データをコピーしてるんですけどね。それでもって,聴きたい曲を引っぱってきて聴く,と。
 これではあまりたくさんは入れられない。わけがわからなくなるから。というわけで,今のところは,ぼくのWALKMANはどうにも機動力に欠ける状態なんですよ。
 この週末にもう一度,「Media Go」に挑戦してみよう。このままじゃ半分以上,宝の持ち腐れだから。

● 今さら,iPod touch なんか買う気がしないでしょ。使ったことがないままに言っちゃ申しわけないんだけど,音質はWALKMANの方が優れていると思う。ハイレゾ級にして再生してくれるんだし。この機能,ぼくはけっこうバカにしてたんだけど,とんでもなかった。
 何とか,WALKMANの機能を十全に引きだして,音楽を聴く時間を紡ぎだしたいものです。