2017年8月17日木曜日

2017.08.12 鹿沼市立東中学校オーケストラ部 第18回定期演奏会

鹿沼市民文化センター 大ホール

● 第14回15回17回と聴いている。今回は4回目になる。だから,レベルの高さはわかっている。全国でもトップ水準にあることも知っている。
 知りたいのはその理由だ。

● 小学生のうちから楽器をやっている子を集めている,というわけではない。公立の中学校なんだから,そんなことはできるはずもない。その前に,楽器をやっている小学生がオーケストラが成立するほどに多くいるとは思えない。
 才能のある子をスカウトしているというのも,同じ理由であり得ない。

● 才能や経験に差がないのだとすれば,考えられる理由は2つしかない。ひとつは教授法が優れていること。もうひとつは,練習の質と量が他校に勝っていること。
 しかし,斬新な教授法が存在するとも思えない。泥臭いやり方以外のやり方は,たぶんない。
 唯一,考えられるのは,顧問の先生の熱が高いという可能性だ。熱に生徒が吸い寄せられる,四の五の言わずに言われたとおりに練習する,そういう可能性。
 それでも,理由としてはまったく足りない。つまり,わからない。

● 場の磁力のようなものがあるのかもしれない。長年の間に全国を狙える場ができていて,そこに集ったメンバーを底上げするといったような。
 場の力は間違いなくある。まるで関係のない例になるけれども,栃木県内だと高級旅館,ホテルは那須にしかない。「山楽」しかり,「二期倶楽部」しかり(ちなみに,ぼくはどちらにも行ったことがないのだが)。
 近くに御用邸を抱えるからだ。しかし,御用邸がなぜ那須のあの場所にできたのか。場の力だとしか言いようがない。

● 旅館にしてもホテルにしても,“高級”は単体では成立しないように思える。贅を尽くした建物を作り,いい食材を仕入れ,腕利きの料理人を雇い,スタッフにも細かく研修をほどこす。
 それだけでは,おそらく,“高級”はできない。そういうこととは別の何かが要る。その何かとは何か。場の力だと考えるよりほかにない。

● そうした場というのが,この中学校にもあるんだろうか。
 地面の「場」なら,多少の災害や景観の変化があっても持続しそうだ。が,人を育てる「場」はそういうわけにはいかないだろう。少し油断すると,崩れ始める。脆いものだろう。
 その場を持続的に「場」たらしめているものがあるはずだ。だから,場の力だと言っただけでは答えになっていない。

● さて。観念の遊戯は以上で終わり。
 開演は午後2時。入場無料。プログラムは前半が,金管,木管,弦のアンサンブル。後半が全体(オーケストラ)の演奏。

● まず,金管。
 管弦楽の場合,旋律を奏でるのはどうしたって弦になるわけで,金管はバックに控えて,盛りあげ役を担当するものというイメージがある。ベートーヴェンの5番では,トロンボーンなんか4楽章まで放っておかれるし。かといって,ラッパなしで管弦楽は成立しようもないんだけど。
 もう少し,金管とはこういうものだっていうのを知りたいと思うことがある。ときどき,吹奏楽を聴きにいくのは,そんな理由もあるのかなと自分で思っている。

● 曲目は次のとおり。
 宮川泰 宇宙戦艦ヤマト
 ロジャーズ 私のお気に入り
 福島弘和 てぃーちてぃーる

● 初めて聴いた「てぃーちてぃーる」が,やはり印象に残った。金管8重奏。「沖縄民謡をジャズ調にした楽曲」らしい。「てぃーち」はひとつという意味で,「てぃーる」は手提げのカゴやざるのこと。
 が,あまりジャズっぽさは感じなかった。万華鏡を覗いているような,次々に景観が変わっていく様,表情の変化が印象的だ(それをジャズっぽさというのか)。

● 次が木管アンサンブル。曲目は次のとおり。
 ダンツィ 木管五重奏曲より第1楽章
 ヒンデミット 小室内楽曲より第4,5楽章
 久石譲 となりのトトロ

● う~む,この演奏を中学生がやっているとは,どうにも信じがたい。信じがたいといったって,現に目の前で演じられているわけだから,こちらのモノサシを替えるしかないわけだが。
 レガートという言葉を思いだす。なめらかに,という。そのレガートを実際の演奏に翻訳すればこうなる。
 誰でも知っている(聴いたことのある)「となりのトトロ」のような曲で,それが如実にわかる。

● ただ,この曲に合わせて歌いだしちゃった男の子がいてね。しょうがない,これは屋内運動会でもある。
 演奏する側とすれば,乗ってくれて逆に嬉しいかもしれないしね。

● 弦楽合奏。ヴィヴァルディの「四季」から「春」と「秋」のそれぞれ第1楽章。チャイコフスキー「弦楽セレナーデ」の第2,4楽章。
 このレベルの高さは,中学生という枠を外しても,県内屈指といっていいだろう。

● 技術的な正確さに加えて,(使いたくない言葉だが)芸術性が乗っている。
 芸術性というのは恣意的に使われるしかない言葉でしょ。あまり頭の良くない人が思考停止になったときに使う語彙だと心得ている。
 だから,何とか別の言葉で言い換えてみたいんだけど,まず,楽譜を読み込んでいるように思われる。楽譜の細部を拾っているといいますか。
 拾った結果を自分に引きつけている。あるいは,自分を通過させて濾過している。それを音に換えている。

● 以上を要するに,解釈がしっかりしている。解釈というのは,豊富な人生経験を積まないとできないものではないらしい。
 人情の機微がわかり,男女の情愛も経験し,酸いも甘いもかみわけ,見るべきほどのものは見つ,というバックグラウンドは必ずしも必要ないようだ。中学生のこの演奏を聴いていると,そう思わざるを得ない。
 多くの楽曲については,すでに解釈が確立していて,その確立されているものを再現すればいいということなのかもしれないけれど。

● 休憩をはさんで,後半はオーケストラ。
 ワーグナー 楽劇「ニュルンベルグのマイスタージンガー」より第1幕への前奏曲
 チャイコフスキー 組曲「眠れる森の美女」より「ワルツ」
 ファリャ バレエ音楽「三角帽子」より「粉屋の踊り」「終幕の踊り」
 ホルスト 組曲「惑星」より「木星」

● 第1音でワーグナーの世界を彷彿させる。あとは曲についていくだけ,って感じ。ぼく程度の聴き手がああだこうだと言う話ではない。
 1stヴァイオリンはツートップ。最初にコンマスを務めた男子生徒のただ者ではない感が好ましい。熱でオケを引っぱる。
 対して,後半にコンミスを務めた女子生徒は理で引っぱる。もちろん,以上は象徴的に言えばという話である。

● これ以上アレコレと申しあげるのは無礼であろうから,駄弁を弄するのは以上にとどめる。
 これで6日の鹿沼高校,昨日の西中学校と続いた,“鹿沼3部作”のすべてを聴けたことになる。こんなことは数年に一度あるかないかだろう。

2017年8月12日土曜日

2017.08.11 鹿沼市立西中学校管弦楽部 第27回定期演奏会

鹿沼市民文化センター 大ホール

● 鹿沼西中管弦学部の定演を拝聴。開演は午後2時。入場無料。
 西中学校の演奏を聴くのは,これが3回目。第23回第25回を聴いている。つまり,1年おきになっている。意図してそうしているわけではなく,偶然の結果。
 平日開催のときにはなかなか行けないわけで,たぶん,そうした事情によるものだと思う。

● プログラムは前半が室内楽的アンサンブルで,後半がオーケストラ演奏。
 まずは,1年生による「聖者の行進」。3年生の管がアシストに入った。その結果どうなったかというと,管の音しか聞こえてこなかった。弦が消されてしまった。
 ま,でも,これは仕方がないか。さすがにオズオズと弓を動かしている気配があった。これからどんどん巧くなっていくのだろう。この年齢の子たちの上達速度は,ぼくらの予想を上回るものだから。

● 2年生による木管三重奏。ジョプリン「エンターテナー」。2年生になると,これだけの安定感が生まれてくるんですねぇ。
 まだ生硬さはあるけれど,1年間でここまでの水準に到達できるという,歴然たる実例。

● 次は2,3年生による弦楽合奏。パッフェルベル「カノン」。これはしっとりと聴かせる曲。この曲のファンは多いに違いない。
 やはり硬い感じはする。もっとふくらみやふくよさかがあればな,とは思う。妙にとんがってる感じも受けた。
 しかし。中学生がここまで弦楽器を操る。その事実は知っておくべきだろう。

● 2,3年生による金管五重奏。メンケン「美女と野獣」。両端のホルンの女子生徒に注目。

● 3年生による木管五重奏。ここでもメンケン。「アンダーザシー」と「パートオブユアワールド」。
 木管五重奏になぜホルンが入っているか。その理由を演奏が教えてくれる。ホルンの音色は木管に合うというか,木管に近いというか。柔らかくて伸びやかな音なんだよねぇ。つまり,ここでもホルンの女子生徒に注目。
 ぼくはホルンが好きなのかもしれない。だものだから,肩入れしてしまうのかも。

● 弦楽合奏。ヴィヴァルディの「四季」から「春」。この曲はポピュラーだから,誰もが評論家になれる。
 メロディーを奏でるのはヴァイオリンだけれども,低弦部隊が下からキチンと支えていればこそだ。その低弦部隊がしっかりしている。

● 次も弦楽合奏。グリーグ「ホルベルク組曲」。演奏したのは「前奏曲」だったか。
 どんどん調子が上がってきている感じ。流れがよくなっている。なめらかな演奏だ。この後,もう一度「春」を演奏してみてくれないかと思った。

● 管楽合奏。タケカワヒデユキ「銀河鉄道999」。お見事。演奏しているのが中学生であることを忘れる。

鹿沼市民文化センター
● ここで休憩。後半はオーケストラの演奏となる。まずは,ウェーバーの「オベロン」序曲。
 全体は部分の総和を超える。これ,“複雑系の科学”の基本テーゼらしい。そのことを思いだした。
 前半のアンサンブルを全部足しても,この管弦楽にはならない。部分の総和を超えている。そこがまた,オーケストラの妙でもあるのだろう。

● それこそ,ふくらみがある。ふくよかでもある。空気をたっぷり孕ませた生ハムのようだっていうか。
 どうもたとえが適切ではないかもしれないけれど,空気を孕ませてお皿に載せた生ハムは,スーパーで売ってる状態の生ハムより断然,旨そうに見える。実際,旨い。

● ステージで演奏している中学生が,紳士淑女に見えてきた。特にヴァイオリン。
 コンミス,かっこいい。ただ,1stの最も客席に近い列に並んでいる女子生徒4人は,誰がコンミスを務めてもおかしくない感じがする(実際,曲ごとにコンミスは替わった)。
 部活だけでここまでになれるんだろうか。部活のほかに個人レッスンを受けていたりするんだろうかねぇ。鹿沼ジュニアフィルの活動もやっているんだろうから,まぁ,部活だけってことはなさそうなんだけどねぇ。

● 次は「ジブリ・メドレー」。ジブリの曲に駄作なし。それをメドレーにしているわけだから,曲としては鉄板のはず。
 オーボエで一人気を吐いている男子生徒がいた。彼,1週間前の鹿沼高校の演奏会にも出ていたな。OB君だね。ここでは,そのOB君が最も目立っていた。

● ロッシーニの「セビリアの理髪師」序曲。金管の見せ場が多い。ヴィオラにも達者な奏者がいたようだ。気づくのが遅くてごめん。

● 最後は,ベートーヴェンの5番。演奏したのは第1,4楽章のみ。奏者も曲に乗って演奏するところがあるのじゃないかと思う。おそらく全楽章を演奏する方がやりやすいのではないか。が,それは6月のジュニアフィルでやってるもんな。
 ここでオーボエの1番を担当したのは,先のOB君ではなくて,(たぶん3年生の)女子生徒だった。そのオーボエが役割をきちんと果たし,フルートも演奏を引き締めた。

● アンコールの「カノン」も含めて,後半のオケ全体の演奏はどれも聴きごたえがあった。
 演奏しつつ場に慣れるということがあるのかもしれない。尻あがりに良くなってきた感があった。

● ただひとつ,惜しむらくは客席。
 この演奏会は一般公開ではあるものの,基本は校内行事なのだろう。客席にいるのは主に保護者だと思われる。校内行事であれば,客席が屋内運動会的なものになるのは致し方がないのかもしれない。
 自分の方が闖入者なので,そこのところをあまり非難する資格はないのだが。

● 動き回る幼児を放置したり,演奏中に入ってきて,空いている席にすぐに座らず,場内をウロウロしたりっていうのは,まぁ,仕方がないとしよう。
 けれども,フラッシュ撮影は,フラッシュ撮影だけは,どうにかやめさせる手だてはなかったものか。あれはステージで演奏している生徒たちへの冒涜で,自分の子どもだったら冒涜してもいいのか,という話になる。
 と言うと,少々以上に大げさになるのかもしれないけれども,演奏が素晴らしかっただけに,この点だけが惜しまれる。

2017年8月7日月曜日

2017.08.06 鹿沼高校音楽部管弦楽団 第22回定期演奏会

鹿沼市民文化センター 大ホール

● この年代の若者たちでなければ表現できない「一生懸命」がある。20代や30代の人間が同じようにしても,こうはならないっていう。
 「その場」にとどまることを許されず,駆け去っていかなければならない若者たちが,それでも石の台座に鉄筆で刻むようにして,「その場」に残そうとする「一生懸命」。

● 彼らは今にしか存在できない。明日の彼らは別の人になっている。そう思わせるほどに成長(あるいは変化)の速さをビルトインされた年齢の若者たちが漂わせる,あわいのようなもの。儚く,哀感にも通じるもの。
 日々「死と再生」を続けて行かざるを得ない疾風怒濤の渦中にあって,それでもなお,「その場」にとどまろうとする「一生懸命」。
 その「一生懸命」がステージから客席に向けて,次々に押し寄せる。息苦しくなるほどに。

● もちろん,台座もろとも流されるしかない。どうやったって,それを止めることはできない。
 そうした音楽という表現形態の一回性,瞬時性を,先鋭に見せてくれた演奏だった。
 全体を総括するなら,「見事である」の一語に尽きると思う。良い演奏を聴かせてもらった(→上から目線的な言い方ですまぬ)。

● この楽団の定演は過去に一度聴いている。2009年の第14回。以後,8年も遠ざかっていたのは,今回のようなインパクトをそのときは受けなかったからだと思う。
 おそらくは,こちら側が聴き手として今よりさらに未熟だったからだろう。申しわけのないことだった。

鹿沼市民文化センター
● 以上で感想は尽きている。したがって,以下はまったくの余談。形作りにすぎない。

 開演は午後1時30分。入場無料。
 開演前にロビーコンサートも行われた。これは聴いたような聴かなかったような。
 っていうのはですね。JR駅から会場まで歩くわけですよ,この炎天下を。タクシーに乗るほど偉くないし。
 途中にあるコンビニで二度,休憩した。寄る年波ってことでしょうね,会場に着いたときには疲労困憊。ということで,まぁ。

● 曲目は次のとおり。
 シベリウス フィンランディア
 ミュージカルメドレー=オペラ座の怪人,サウンド・オブ・ミュージック,レ・ミゼラブル
 外山雄三 管弦楽のためのラプソディ
 プロコフィエフ バレエ音楽「ロメオとジュリエット」から,第1,2,5,6,7曲

● 特に記憶に残ったものをどれかひとつ選べと言われたら,「フィンランディア」か「オペラ座の怪人」かで悩むところなんだけど,「フィンランディア」かな。
 金管による最初の一音で,ガッと聴衆を鷲掴みにした。楽譜の然らしめるところでもあるわけだけど,演奏の妙にもよる。特に,トロンボーンが印象的。ここが決まれば,あとは一気呵成。

● 「オペラ座の怪人」は楽譜どおりにメリハリを付けるのが,なかなか大変なのじゃないかと思う。それがメリハリの細かいところまで,ほぼ完璧。小さな事故は愛嬌というものだ(事故にまでは至っていないか)。
 「オペラ座の怪人」っていい曲じゃん,と教えてくれる演奏だった。ぼくも吹奏楽を含めて,この曲は何度か聴いているんだけど,今回しみじみいい曲だと思った。

● 「管弦楽のためのラプソディ」はソーラン節や八木節などの民謡をつなぎ合わせたもの。民謡を取り入れるっていうのは,マーラーもやってるし,ドヴォルザークもやっている。わりと多く見受けられるものだ(と思う)。
 しかし,ここまでのものはあまりないでしょ。アレンジとかオーケストレーションにオリジナリティがあると言われれば,それはそのとおりなんだろうけど,それを「作曲」といってはいけないのじゃないか。

● ぼくの知る限り,栃木県内の高校で吹奏楽ではなく管弦楽部を有しているのは,この鹿沼高校のほかに,宇高,宇女高,栃女高,足利高,足女高,合わせて6校にとどまる。その中でも,鹿沼高校と宇女高がおそらく双璧なのではないか。
 中学校で管弦楽部があるのは鹿沼市内の西中と東中のみ。その西中と東中から優秀な経験者を集めることができる,地理的な優位性を鹿沼高校は持っている。
 のだろうと思ったんだけど,プログラム冊子の部員名簿を見ると,両中学校の出身者は3分の1に過ぎない(といっても,弦に限ればさすがに割合はもっと高くなる)。鹿沼からひと駅電車に乗れば,そこは宇都宮だからね。ゴッソリかき集めるというわけにはいかないようだ。

● 印象に残った奏者が3人いた。チューバをしっかり支えていた女子生徒。1番フルートを担当した,これも女子生徒。それから,奏者としての所作が美しかったコンミス(当然,女子生徒)。
 ヴァイオリンを担当していた生徒が途中でパーカッションに回るとか,臨機応変の対応もあった。高校の管弦楽ではわりとあることなんでしょうね。8年前の定演でも,同じことがあった記憶がある。

● 大人の市民オケに混じったとしても,鹿高オケが埋没することはないように思う。
 6月に鹿沼ジュニアオケの演奏を聴いたときに,鹿沼は栃木県の音楽活動のセンターのひとつなのだと思った。今回,いよいよその感を深くした。

2017年7月17日月曜日

2017.07.17 宇都宮ジュニアオーケストラ 第21回定期演奏会-ファイナル・コンサート

栃木県総合文化センター メインホール

● ぼくの知る限り,栃木県内にジュニアオーケストラは3つある。宇都宮,鹿沼,足利。その中のひとつ,宇都宮ジュニアオーケストラが,今日の演奏会をもって活動を終了する。
 活動終了の最大の理由は団員の減少らしい。とすれば,これが先駆的な例になってしまう可能性もある。

● 音大卒は毎年積みあがる。プロへの道は彼らにとっても険しい。彼らがアマチュアとして演奏活動を続ける。あるいは音大ではなくても,演奏が好きでずっと続けていた人たちが,社会人になっても市民オケに入って,音楽を継続する。
 そのため演奏者は増える傾向なのに対して,聴衆が細ってきていると思っていた。聴衆の高齢化ははっきりしていて,彼らが抜けた分だけ新規参入があるとはとても思えない。
 この先,どうなってしまうのだろう。それはしばしば,思うことがあった。

● ところが,今まで存在していた楽団が消えてなくなるという事態は,まったく考えたこともない。ぼくの中では想定外。
 もちろん,一発オケというのもあるし,楽団内で運営方針が対立して,分裂したり消滅したりっていうのはある。それは昔からあることなので,考慮の外に置く。

● ジュニアの世界ではそれが起こっているのだな。少子化という言葉をことさら使うのも憚られるほどに,少子化は社会の前提になっている。実際に起きてみれば,こういう事態もあり得べし,だった。
 昨年の第20回の演奏会でも,OB・OGが多数参集してて,節目だから集めたのだなと思ったんだけど,そうじゃなかったんだ。そうしないとオーケストラとして成立しないくらいに団員が減ってたんだ。

● 宇都宮でもそうだとすると,厳しいんだろうなぁ。先月初めに聴いた鹿沼は元気そうだったんだけど。
 ぼくにできることは,ホールまで自分の身体を運んでいって,彼らの演奏を聴き,拍手を贈ることくらいだ。
 今日は,別の演奏会もあって,当初はそちらに行くつもりでいた。が,この楽団がファイナル・コンサートを催行するということであれば,行かないわけにはいかない。
 開演は午後2時。入場無料。

● 曲目は次のとおり。指揮は水越久夫さん。
 ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲
 シューベルト 交響曲第7番「未完成」
 ベートーヴェン 交響曲第5番
 最後にふさわしい王道のプログラムといっていいだろう。これしかないと言っていいかもしれないほどの。アンコールはブラームス(ハンガリー舞曲第5番)。最後に相応しく,ドイツの正統を並べてきた。

● 正々堂々のプログラムに対して,演奏もまた正々堂々。
 「未完成」を生で聴くのは久しぶりのことだ。あぁ,こういう曲だったなぁと思いだしたっていうか。最近,CDでもずっと聴いていなかったので。

● 「運命」は出色中の出色。特に第4楽章はお見事の一語に尽きる。高揚感がハンパなかった。
 「運命」はこうでなきゃという自分の中のイメージとピタリと合っていた。こういう演奏を聴くと嬉しくなる。

● ジュニアには最後という気負いはなかったように思われる。普段どおりというか,淡々と演奏していた印象。もちろん,それで良いのである。
 ファイナルコンサートだからといって,何か特別なことがあるわけでもない(団長の挨拶はあったけど)。アンコールが終われば,観客は三々五々に散っていく。

● ライヴは一期一会だ。演奏する側にとっても聴く側にとっても。今日の演奏でも,奏者のうちの誰が一人が入れ替わっていたら,この演奏はなかったわけで。
 そして,今後はこのオケとの出会いそのものが叶わなくなったというわけだ。

2017年7月16日日曜日

2017.07.16 栃木県立図書館第161回「県民ライブコンサート」-マニアックなクラシックのコンサート

栃木県立図書館ホール

● 栃木県立図書館の「県民ライブコンサート」。斎藤享久さんと栃響選抜メンバーによるハイドンとモーツァルト。
 開演は午後2時。入場無料。

● 今回の曲目は次のとおり。
 ハイドン オーボエ四重奏曲 ニ長調
 モーツァルト ピアノ四重奏曲第2番 変ホ長調
 モーツァルト ディヴェルティメント第17番 ニ長調

● 斎藤さんは,オーボエ四重奏曲ではオーボエを,ピアノ四重奏曲ではピアノを,ディヴェルティメントでは指揮を,それぞれ担当。
 ハイドンのオーボエ四重奏曲。フルートをオーボエに替えたものだろうか。ハイドンの曲はまずめったに生で聴く機会はない。

● モーツァルトは,お馴染み感がありますな。素人の印象を言わせていただければ,最小限の道具しか使わないで,とてつもなく緻密な建造物を構築してしまう。宮大工の棟梁のようなね。
 したがって,演奏する方も,超絶技巧は要求されないんだけれども,わずかのミスも許されないという緊張は強いられるんじゃなかろうか。

● 各曲の間にアンコール曲を入れる。箸休めというか,お客さんにひと息入れてくれっていう感じの。
 だから,アンコール曲が3つある。最後はアンダーソンの弦のピチカートだけで演奏されるやつ。「PLINK,PLANK,PLUNK!」だったか。小味な小品という感じの曲。

● というわけなので,演奏時間はたっぷり2時間。本格的なコンサートなのだ。侮ってはいけないのだ。無料の小規模な演奏会だからといって,なめたらいかんぜよ。
 これだけのハイレベルな演奏を,少なくとも栃木県で聴ける機会はそんなにない。ありがたいぞ,県立図書館!
 奏者と客席の距離が近いのもいい。その代わり,客席に勾配はついていないから,後ろの席だと奏者の全体を視野に入れることは難しくなるけどね。

2017年7月15日土曜日

2017.07.15 真岡フルートアンサンブル 第6回発表会

真岡市民会館 小ホール

● 真岡フルートアンサンブルの第6回発表会。開演は午後3時。入場無料。

● 初めての拝聴となるが,結成して15年になるらしい。
 技術の巧拙は問うところではない。こうして創る側(聴かせる側)に身を置き,練習を重ねて曲を形にし,その結果を聴衆に晒すというだけで,敬意を払われて当然である,と,ぼくは思う。
 演奏する側と聴く側を対置すれば,前者が常に上位だ。聴いて,その演奏に対してあれこれ言うのは,誰でもできる。

● 活動すること自体を目的にして活動しているのだろう。それでまったくOKだ。であれば,あまり細かい注文をだすのは余計なことだとしたものだ。
 余計なことをする輩をバカという。こんなブログを書いていることじたい,余計なことかもしれず,したがって自分はバカかもしれない,と時々思う(→時々かよ)。

● ただし,だ。言いたくなることはいくつかあったぞ。
 楽譜に集中するあまりなのか,指揮者を見ていなかったのではないか。終曲のタイミングが合わないのは,指揮者を見ていないからではなかったか。

● リズムを取るのに,靴を鳴らすのはやめた方がいいんじゃないか。
 開演前に会場に放送を流す。携帯電話をはじめ,音の出る電子機器のスイッチは切ってくれ,と。
 正当な要求だ。演奏中にケータイの着信音が鳴ったら,目もあてられない。演奏中に音楽以外の音が発生すると,演奏を壊してしまうことがある。
 同じように,演奏者も音楽以外の音を発生させてはいけないだろう。ごくたまに,楽器(特に弦の弓)を床に落とすのを目撃することがあるけれど。
 どうしてもつま先でリズムを取りたいというのであれば,音の出ないゴム底の靴に替えてはいかがか。たぶん,市販されているだろう。

● 指導者の遠藤淳子さんが,次の2曲を演奏。これを無料で聴いては申しわけない。
 マスカーニ 歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」より「間奏曲」
 ショパン 「フルートとピアノのための,ロッシーニ「シンデレラ」の主題による変奏曲」

● ショパンはピアノ曲しか作っていないという印象が強い。チェロ・ソナタがあることは知っていたけれども,フルート・ソナタまであったとは今日まで知らなかった。
 が,この曲は偽作の可能性が高いらしい。ただ,誰が作ったにせよ,ショパンだと言われると信じてしまうほどに完成度が高い。

2017年7月12日水曜日

2017.07.09 東京大学歌劇団第47回公演 ビゼー「カルメン」

三鷹市公会堂 光のホール

● 東京大学歌劇団の公演を見るのは,これが5回目になる。前回見たのは,2014年の12月。だいぶ間が空いてしまったが,その理由のひとつは,会場が三鷹市公会堂であること。
 つまり,遠いんですよね,ここ。栃木から行くんだから,どこだって遠いじゃないか,って?
 そうではない。三鷹駅までは近いんですよ。近いっていうか,電車が運んでくれるから,こちらは座っていればすむ。居眠りしててもいいし,雑誌を読んでてもいいし,音楽を聴いててもいい。

● 問題は三鷹駅から三鷹市公会堂までなんだよね。この距離がけっこうある。
 駅からはバスもある。ただ,乗合バスっていうのは,地元民しか乗りこなせない。ヨソ者としてはどのバスに乗ったらいいのかわからない。
 とはいっても,そんなのはネットをググればわかるんですよね。そのわずかな手間が面倒くさい。その面倒くささを避けてしまう。

● 避けた結果どうなるかといえば,駅から公会堂まで歩くことになる。距離にすれば2㎞くらいか。宇都宮でいえば,JR駅から東武駅くらい? もうちょっとあるかな。
 歩くのもまた面倒だ。それが間があいてしまった理由のひとつかな,と。

● が,いつまでもそうしてはいられない。頭のてっぺんに穴が空きそうな太陽光を受けながら,その2㎞を歩いて,三鷹市公会堂へ。
 大成高校のグラウンドでは野球部が練習をしていた。高校野球の季節だな。この炎天下でこんなことができるんだから,高校生ってすごいよな。ぼくらが同じことをやったら(できないけど),自殺行為になる。

● さて,「カルメン」だ。この歌劇の脚本で解せないことが2つある。
 ひとつは,ドン・ホセはなぜカルメンにここまで入れあげてしまったのか。しかも,入れあげた状態が長く続く。いっこうに冷める気配がない。
 カルメンは情熱的な美人で,いうならマドンナという設定になっているんだけれども,それにしたって。どうして,ここまで。
 もうひとつは,最後のカルメンの行動。ホセに殺されるとわかっていながら,友人の忠告をふりきって,ホセに会う。会って,さぁ殺せと言わんばかりにホセを挑発する。そして,殺される。

● この2つがどうもわからない。この2つは,でも,歌劇「カルメン」の根幹をなすところであって,そこに疑問を持ってしまったのでは,「カルメン」がどこかに飛んでいってしまう。
 しかし,わからないものはわからない。

● メリメの原作には,そういうわからなさはないんですよね。
 歌劇でのホセは内向的で母親思いの真面目な青年だけれども,原作でのホセは激昂しやすい男。カルメンをめぐって軍の上官と言い争いになると,上官を刺殺して,ダンカイロ盗賊団に身を寄せる。この盗賊団は殺人も躊躇なく行う極悪非道な犯罪集団だ(歌劇では愛嬌のある密輸団として描かれているのだが)
 ホセは,カルメンがダンカイロの情婦であることを知ると,ダンカイロをも殺している。エスカミーリョが闘牛で瀕死の重傷を負ったことを知って,カルメンとヨリを戻そうと動く。
 そういうことなら,なるほどね,ですむ。わからなさは残らない。

● オペラの脚本は,原作をかなりコミカルに改変している。それは興業として成功させる必要があったからだろうけれども,ぼくらに与えられるのは改変された歌劇「カルメン」であって,それを自分に引き寄せて,自分をスッキリさせなければならないという作業が発生してしまった。
 原作と歌劇の最大の違いは,歌劇ではミカエラという重要なキャラクターが設定されたこと。これで劇的な面白さは増していると思う。増しているんだけど,ホセに対するわからなさも増すことになる。こんなに可愛い許嫁がいるのに,おまえは何やってんだよ,っていう。

● 田舎対都市というとらえ方もできるかもしれない。田舎の保守的な道徳が身体に染みこんだホセに対して,都会の奔放な風を思うさま受けながら生きているカルメン。
 故郷という帰れる場所を持つホセに対して,寄る辺なきカルメン。故郷というシェルターを持つホセに対して,ひとり風に向かって立ち続けなければならないカルメン。
 その違いは,生き方の差にならざるを得ない。切羽詰まった度合い,生に対する真剣さ,そういうものがホセとカルメンではだいぶ違う。カルメンは道徳とかルールとか,そんなものをかまっている余裕はない。
 田舎育ちのホセが都会育ちのカルメンに惹かれてしまった。田舎と都市が戦って,都市が勝利した。

● オペラを見る楽しみのひとつに,登場人物と自分を比較して,俺はあそこまでバカじゃねえぞ,と安心するというか溜飲をさげるというか,そんなものがあるんじゃないかと思う。
 「あそこまでバカ」の筆頭は,この歌劇「カルメン」に登場するホセでしょう。だから,そこで溜飲をさげて終わりにしてもいいんだけどねぇ。

● 次に,最後のカルメンの行動だ。どうしてわざわざ殺されに行くようなことをしたのか。
 女の矜恃を示すため? そんなものを示す必要は寸毫もない。
 カード占いで,何度やっても「死」しか出なかったので,もう生きていても仕方がないと思った? そんなバカな。
 ミカエラの説得に応じて,母親を見舞うために密輸団を離脱したホセを見て,自分の孤独感を深めた? 自由がなにより大事というのは自分を納得させるための方便だったとしても,その流儀はかなりのところまでカルメンの身になっていたはずだ。その自由人がその程度で孤独を深めることは,おそらくないだろう。
 ミカエラに嫉妬した? それもないよなぁ。あったとしても,だから自分がホセに殺されてもいいってことにはならないよ。
 寄る辺ない人生に疲れてしまった? それもねぇ。あのカルメンが,と思うよねぇ。

● 普通は,ストーカーと化したホセに対して,「しつけーんだよ,このクソ野郎」と引導を渡しに行ったと考えるべきところなんだろうけど,それも命をかけてやるほどのものではないでしょ。
 となると,考えられる理由はひとつしか残らない。カルメンは自分でも気づかないところで,じつはホセを愛していた。ホセになら殺されてもいいと思っていた。
 しかしねぇ。カルメンはホセに恋情を寄せたことは,たぶん一度もないんだよねぇ。ホセに利用価値があるときだけ利用した。気持ちを向けたことはない。わからないまま残るねぇ,これは。

● 女心の複雑さ,不可解さに還元してはいけない。女心はいたって単純にできている(と思える)。快不快の原則と自分中心主義で動いている(したがって,しっかりと地に足が着いている)。ドライといってもいい。
 問題はこの脚本を書いているのが(たぶん)男であることで,リアルの女と男の目に映った女はだいぶ違うでしょ。そのあたりを踏まえて解釈していかないとね。つまり,脚本家が女を描き損ねている可能性もあるってことね。

● 要するに謎が多い脚本だ。そこに説得力を持たせるにはどう演出すればいいかと,演出者はいろいろ悩むのだろう。オペラ解釈とは,つまるところ,そういうことかもしれない。
 オペラなんだから,大衆受けしなきゃしょうがない。それを前提にすると,この脚本は大成功でもあるわけなんだが。

● この歌劇団の公演を初めて観たのは2013年の1月。そのときも「カルメン」だった。が,今回の「カルメン」は前回のそれとはまったく違ったものになっていた。
 何が違うかといえば,まず演じ手の技量が違う。東大という冠が付いていても,東大生はむしろ少ないのじゃなかろうか。ひょっとして音大の声楽科の学生さんが入っていたりするんだろうか。
 カルメン,ミカエラ,ホセ。いずれも呆れるほどに上手い。特にミカエラは,歌が力強くて,その力強さが辺りを払うところがあった。払いすぎてしまって,ミカエラのホセを思う乙女的な純情さ,村娘の素朴さ,そういったものまで払われてしまった憾みが残るほどだった。

● 舞台のセットと衣装も本格的。前回は,いかにもお金がない学生劇団が手作りで設えた舞台っぽくて,それはそれで好感の持てるものだった。
 今回は,資金提供者がいたんだろうかと思うような,立派なステージでしたね。

● 演出も違っていた。カード占いをするところで,カルメンに「二人とも死ぬ」と言わせている(字幕にそう出たわけなのだが)。“二人とも”という字幕には初めてお目にかかった。“二人”とはカルメンとホセなのだろう。
 カルメンを刺したところで劇は終わるんだけど,このあとホセは,カルメンを刺したそのナイフを自分の首に突き刺したはずだ。
 先に「自分でも気づかないところで,じつはホセを愛していた」と言ったのも,この字幕に連想を刺激されたものだ。

● 初めてカルメンに出逢ったときのホセと,初めてエスカミーリョに出逢ったときのカルメンの様子がパラレルだ。気になるっちゃ気になるんだけど,努めて関心なさそうにしている,という様子。
 これは今回の演出の独自性というわけでもないように思うけれども,そこを強調していたように思われる。穿ち過ぎだろうか。

● 結論は,ここまで作り込めるのはすごい,ということ。演出はもちろんのこと,管弦楽も含めて,大道具や衣装からプログラム冊子に至るまで,相当な水準。
 何から何まで自前。アウトソーシングはしてないらしい。すべての工程が美味しいんだろうから,アウトソーシングしたんじゃもったいない。

● 会場に入りきれず,ロビーでモニター鑑賞を強いられたお客さんも,かなりの数,いたようだ。これはあまりよろしくないから,次回は会場を変えてはどうかね。
 「カルメン」だからこれだけのお客さんが入った? そうかもしれないけどね。